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1967年12月


北方領土を呼返そう!  
 2016年12月15日のプーチン大統領訪日から、まもなく1年を迎えるが、北方領土問題は元島民の高齢化だけが進み、確たる進展はみられない。手詰まり感が滲むなか、先の衆院選で一応の信任を得た安倍政権が、どう次の一手を打つのか注目される。「週刊朝日」1967年12月15日号では、8ページに及ぶ北方領土特集を組み、引揚者たちの悲痛な声を集めている。半世紀前はまだ戦争の記憶が生々しいだけに、彼らの言葉は重い。

故郷はつい目の前にあるのに…

▲「週刊朝日」’67年12月15日号
〈返還運動が日ましに高まっている現在、引揚者のほとんどは故郷の見える北海道根室市付近に住みつき、その日のくるのを待ちわびている。「呼返せ、父祖の地を!」と叫びつづけながら……〉
 11月中旬のある日、根室市の納沙布岬でひとりの男性が鉛色の海に浮かぶ島影を凝視していた。岬の近くで漁師をしている伊勢喜八さんは、国後島の出身だ。明治43年、秋田県生まれ。「海の男になりたい」という夢を抱き、21歳のとき友人とともに村を飛び出した。
 当時の国後は、〈春はタラバガニのシーズンだ。足をひろげると一メートルもあるカニが、処理に困るほどとれた。十月を過ぎると、そこここの川に無数のサケが上がってきた。川の中へ棒を立てても倒れないほどだった。コンブ、ナマコ、タコ、ホタテなどは人手がなくてとりきれないほどだった〉という豊かな漁場で、伊勢さんは島で成功者となった。〈「漁獲の多い年は、一年間で箱にいっぱい札束を残したもんだ」〉と振り返る。
 しかし、終戦を機に運命は一変した。北海道庁が地元の警察を通じ、〈「引揚げる必要なし、安心して操業せよ」〉と通達していたにもかかわらず、9月2日、ソ連軍が銃を突きつけながら上陸してきたのである。
 その3日後、伊勢さんは決死の脱出を決行した。〈岸辺を離れると間もなく、ソ連軍の銃弾がうなりをあげて頭をかすめた。やっとたどりついた根室は米軍の空襲や艦砲射撃で町の八割が破壊されていた〉という悲惨な状況で、避難後の生活も困窮を極めた。
〈国後島引揚者を中心とした移民団が結成され、道南、江差沖に浮ぶ奥尻島へ集団移住した。このあたりの日本海は荒れに荒れる。移民団に与えられたのは小さな磯舟が一隻だった〉
 彼らは5年間、なかなか出漁できない苦境に耐え続けたものの、〈「やはり、国後島が見えるところへ……」〉との思いが強くなり、団員の大半が根室へ帰ってきた。
 根室では漁協から借金をして操業したが、またしてもソ連が立ちはだかった。昭和27年と28年、ソ連の監視船に拿捕されてしまったのである。1度目は3ヵ月の抑留で済んだが、2度目は5年の長きに及んだ。
 連日連夜の尋問は厳しく、伊勢さんは栄養失調になり、回復後はシベリアの収容所へ送られた。そこで自分にスパイ容疑がかけられ、懲役25年の刑を科せられていることを知り愕然とする。ふつうなら絶望に打ちひしがれるところだが、伊勢さんは驚異的な行動力で見事に危難を乗り越えたのだった。
〈夜学へ通ってロシア語を勉強し、二回もソ連政府に嘆願書を出した。三十三年、ソ連政府はやり直し裁判をして、伊勢さんのスパイ容疑は晴れた〉
 伊勢さんが2度目に拿捕されたとき、妊娠8カ月だったスナ夫人の苦労も並大抵ではなかった。夫の帰還を待つ間、〈四人の子どもをかかえて、日雇の道路工事に出たり、カニ工場に住込んだりの生活〉を余儀なくされた。
 釈放された伊勢さんは、拿捕の危険がないコンブ漁で生計を立てることができ、ようやく一家に平和な日々が訪れた。とはいえ、心にわだかまる寂寥感は隠せない。やはり島が恋しくて仕方がないのだ。
〈「島が返ってくんなら、いますぐにでも飛んでいきたいな。二十年以上も北海道で苦労したけど、こんな苦労は一年で挽回するべ」〉
 伊勢さん以外の引揚者を紹介する紙幅はないが、筆舌には尽くしがたい苦難を味わった人ばかりだ。そして、伊勢さんと同様に、みな激しい望郷の念に苛まれていた。
〈「ソ連は戦後のドサクサにまぎれて北方領土を不法占拠した。おそらくソ連は沖縄問題とかなり関連を持って考えているでしょう。交渉は長くかかると思いますが、沖縄問題が片づけばソ連も態度を変えるだろうと期待しています」〉と話すのは、当時の町村金五知事だが、この5年後に沖縄返還は実現したものの、ロシアの狡猾な外交手法はソ連時代から何も変わっていない。
 また、北海道と道外の「北方領土返還」に対する熱意の温度差は、半世紀前も顕著に表れていた。
〈東京・小田急デパートで開かれた「北方領土展」は、即売会の北海道名産を買う人たちだけが列を作り、かんじんの資料展示室はガラガラだった〉
 こうした非情な現実もまた、引揚者を苦しめていたのではなかろうか。


さようなら銀座のチンチン電車

▲「週刊朝日」’67年12月22日号
 消えゆく鉄道というのは、昔も今も日本人の琴線に触れるものであるようだ。北海道の場合は、ここ数年、江差線や留萌線、急行「はまなす」、寝台特急「北斗星」などの廃止が相次ぎ、全国から大勢のファンが殺到したのが記憶に新しい。JR北海道は赤字地方路線の存続に消極的だから、今後も切ない“さよならフィーバー”が繰り返されることになろう。
「週刊朝日」22日号では、半世紀前の銀座で郷愁の“チンチン電車”の廃止を惜しむ人たちの熱狂ぶりを伝えている。12月9日をもって廃止となったのは、五反田駅と銀座二丁目を結ぶ都電4系統(通称・銀座線)。〈前身の鉄道馬車時代までさかのぼれば実に八十五年間の、長いご奉公だった〉とあるように、都民の足として親しまれ、最盛期には37系統を誇った都電だが、急速なモータリゼーションの波には抗えず、この時期、続々と姿を消していた。
 交通量の多い銀座通りを走る銀座線は、最も影響を受けた路線だった。
〈交通ラッシュによるスピードの低下で、乗客は減るばかり。昭和三十年にくらべて、わずか四分の一に激減する有様で、これによる累積赤字は四十一年度末で実に二百七十億円。万策つきての引退である〉
 現在はホコ天のイメージが強い銀座通りだが、当時は地獄の渋滞に悩まされていたのである。すでに利用者からはそっぽを向かれていたものの、「都電廃止」のニュースは大きな衝撃を与えた。
〈十二月九日が近づくにつれ、皮肉なことに、別れを惜しむ人たちで乗客は日ごとに増え、その姿をカメラにおさめようとファンが押しかけた。こんなに安全で、しかも安い交通機関をなぜ廃止にするのかと、運転手や車掌に食ってかかる乗客もあった〉
 文句を言われた職員は、たまったものではない。〈「それならば、なぜもっと早くから運動して下さらなかったのか。自動車を運転なさる方も、都電の前に入らないよう協力していただけたら、まだまだ都電は生きのびてお役に立てたのに……」〉と嘆く、ベテラン運転手の小林林蔵さんに深く共感する。
 最終電車を見送ろうと四丁目交差点に繰り出した人は5千人以上に。写真をみると、まさに立錐の余地もなく、〈話題の終電車は定刻を一時間もおくれる始末〉というドタバタのフィナーレとなった。
 現在、都電は専用軌道を持つ荒川線(三ノ輪橋―早稲田)のみが生き残っているが、東京五輪に向け、かつて晴海通りを走っていた8系統などを復活させる計画が浮上している。深刻な渋滞が慢性化するなか、エコで安心・安全な路面電車のメリットが見直されているのは、東京だけではなく世界的な流れだ。銀座にも都電が戻ってくることを期待したい。


北海道生活四カ月の周囲

▲「週刊新潮」’67年12月16日号
 ベトナム戦争時代の「脱走兵」というと、陰惨なイメージがつきまとうが、「週刊新潮」16日号が報じているテリー一等水兵の場合は、むしろ「陽気なヤンキー」を地でいくお気楽者だったようだ。
 舞台は十勝の清水町。〈金物屋の近くの小野瀬牧場に、最近日本人妻と住み込んだテリーと呼ばれている男が、牧場の名で石油ストーブやら中古のテレビ、トースターを次々とツケで買い込んでいる。これが総額四万円〉〈食べ物がゼイタクで近所の店からツケで選び、豚肉などは上肉をカタマリで買う〉〈「はたして支払いができるかどうか商人たちが心配している」〉――といった声が囁かれるようになったのである。また、こうした派手な金遣いに加え、〈「牧場のアメリカ人は、ベトナム戦争に行った経験もあって、もう除隊になっている、といっているようだが、ふたたびベトナムへ行くのがいやで、逃げているんじゃないか」〉との噂も立ち、新得署が動く事態となった。
 警察が迅速に対応したのは、脱走米兵4人がモスクワへ亡命するという事件が起きたばかりのタイミングだったからだ。事情聴取により、アメリカ人の身元は神奈川県厚木基地勤務のルードベック・テリー一等水兵(20)と判明。11月28日、千歳の米軍憲兵隊に引き渡されたのだが、牧場でのテリーはどんな生活を送っていたのか記事を追っていこう。
 テリーと女が小野瀬牧場に身を寄せたのは8月21日のこと。牧場主の小野瀬一郎さん(43)は茨城県石岡市で乳牛牧場を経営していたが、2年前の春に北海道へ移住すると約80ヘクタールの牧場を開き、〈個人経営の牧場では道内随一といわれるほど〉の成功者となっていた。牧場主仲間との会合で帯広の料理屋を訪れた際、女中のひとりから〈「いとこの亭主が、アメリカ人で、ブルドーザーの運転をしていたんだけど、牧場で働きたいといっている。面倒をみてくれませんか」〉と頼まれたのが、雇用のきっかけだった。ちょうど猫の手も借りたいほどの繁忙期であり、米国で英語に苦労しながら乳牛輸入の商談を行った経験もあったことから、〈「こいつにみっちり仕事を仕込み、そのかわり英会話を完全に身につけよう」〉と考え、気軽に引き受けたのである。
 当初、底抜けに陽気なテリーは、牧場仲間とうまくやっていた。脱走兵と疑う者は皆無で、久子夫人(39)ものちに〈「テリーも、無銭旅行の“ヘンな外人”ぐらいに思っていたんです」〉と述懐している。
 しかし、どんなに忙しいときでも定時にさっさと帰ってしまったり、仕事中にサボってビールを飲んだりと、マイペースで怠惰なテリーの仕事ぶりは、徐々に仲間の反感を買うようになり、職場内で孤立を深めていった。また、他の従業員に比べ破格に高額な3万5千円という月給も、周囲からの嫉妬を集めることとなったようだ。
 一方、テリーの妻・美和子さん(20)の評判も悪かった。若い従業員の世話をする契約になっていたのだが、テレビをみてゴロゴロするばかりで仕事はまるでせず、牧場側が期待していたテリーの通訳という重要な任務もサッパリ。それもそのはず、〈彼女は、この六月にテリーと知り合ったばかり。それから「英会話の本を買いに行った」程度の語学力〉に過ぎなかったからだ。
 美和子さんは神奈川県大和市の出身。高校時代にグレ始め、家出したのちは水商売の世界に入り、そこでテリーと知り合った。北海道への逃避行を決断したときには、すでに妊娠4ヵ月の身重だったという。
 テリーが厚木基地から逃げた動機は、やはり厭戦だった。友人がこう証言する。
〈「派遣先が音に聞こえたダナン基地だったんです。三ヵ月の予定が一ヵ月で怖くなり、病気を理由に帰って来ました。それが、近く再派遣される心配が出てきた。もちろん彼女との生活をこわしたくないという第二の理由もありましたが」〉
 米国に送還されたテリーは、軍事裁判の被告人席に立たねばならなかった。どんな判決が下されたかはわからないが、激戦地のダナンで地獄をみたテリーにとって、北海道は悪夢を忘れることができるユートピアだったに違いない。