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1968年3月


豪雪と闘う女駅長  
 去る1月19日、新潟県三条市内で信越線の電車が約15時間半にわたって立ち往生したニュースは、改めて雪国の自然の猛威を知らしめた。「週刊朝日」1968(昭和43)年3月1日号では、その信越線以上の豪雪路線として知られる飯山線の上境駅に勤務する女性駅長の奮闘ぶりを伝えている。交通不便な寒村で地元住民の足を守るため、日々、並々ならぬ苦労があったようだ。

一番列車到着前に雪かき作業

▲「週刊朝日」’68年3月1日号
 飯山線は長野県の豊野駅と新潟県の越後川口駅を結ぶ96・7キロのローカル線で、近隣の只見線とともに、JR屈指の豪雪路線として知られている。北海道のパウダースノーとは違い、重く湿った雪なので、沿線住民の雪かきや雪おろしの苦労は並大抵ではないだろう。
 その飯山線の小駅、上境駅に勤務する小出正乃さん(42)の一日は、午前6時から始まる。
〈かじかむ手をこすり合わせながら事務室へおり、ストーブに火をつける。事務所入口のガラス戸は、昨夜から降りつもった雪の重みで、いまにも倒れそうに、ビシビシと不気味な音をたてている〉
 職場の過酷な環境が伝わってくるが、〈正乃さんの戦争は、これから始まる〉のだった。朝一番の仕事は雪かきだ。
〈重いガラス戸をあけると、積っていた雪が、横なぐりの吹雪と一緒になって飛込んでくる。一面の銀世界。一歩踏出すと腰まで埋まる〉
 宿直明けの体に、早朝の重労働はきつかろう。7時9分発の一番列車を迎えたあとも休むひまはなく、8時過ぎにようやく朝食をそそくさと済ませると、今度は雪踏みに汗を流す。昼頃の列車は小荷物の到着と発送が多く、大量の荷物があるときは、長いソリに積んで運ばなければならない。午後3時に遅い昼食。昼食を終えると学生の帰宅ラッシュが待っている。
〈正乃さんが一番おそれているのは事故だ。ホームで足をすべらせたらどうしよう、と正乃さんは心配でたまらない〉
 そのため、おのずと雪踏みの足に力が入る。7時頃に夕食。19時50分に終列車を見送るが、無事故で一日を終えた安堵感に浸るまもなく、事務室でこの日の売り上げの計算に追われる。
〈計算が終ったら、売上金をかかえて農協の金庫へ走る。凍てついた雪で、足がもつれる。帰ってくると、待合室の火を落す。正乃さんはやっと息をつく。闘いは終った〉
 しかし、正乃さんは帰宅を思いとどまる。明日の空模様を案じ、こう呟いた。 〈「また雪になりそうだ。今夜も駅に泊るか」〉


寒村の駅に生きる“国鉄一家”
「駅長」とはいっても、正乃さんは正式な国鉄職員ではなく、駅業務を委託されているだけの、いわば「雇われ駅長」に過ぎなかった。そのため、〈月給は二万円。それに宿直手当が一晩につき二百円〉という、決して恵まれた条件ではなかった。
〈この委託制度は、国鉄の人べらし―合理化に沿って生れた制度で、いま全国で三百八十の駅が、民間人に委託されている〉〈駅員とまったく変わらない仕事をし、責任をもたされているのに、月給は安い。国鉄の合理化が、こんな末端にシワ寄せされているのだろうか〉
 赤字ローカル線の飯山線は業務委託駅ばかりで、30駅のうち11駅を占めていた。これは全国の路線で2番目に多い数字であった。
〈「こんな安い月給で、副業でなきゃ、とてもできませんよ」〉と正乃さんは恥ずかしそうに笑うが、それでも嬉々として働いていたのは、なにより鉄道を愛していたからだ。そんな鉄道愛は、正乃さんの家族も同様であった。
〈夫の信夫さんは(飯山線の前身の)飯山鉄道時代に上境駅の助役を務め、国鉄買収後は、飯山駅の助役をしている。長女で十九歳のひとみさんも、長野鉄道管理局、飯山線管理長室で事務員をしており、文字通りの国鉄一家だ〉
 正乃さんが「駅長」を拝命したのは昭和40年だが、〈結婚前は六年間も、飯山鉄道本社に勤め、十九年以降は二年ほど飯山駅で電話交換手をしていた〉と、飯山線とは浅からぬ縁があった。また、信夫さんの官舎が上境駅の隣にある心強さも、頑張りを支える要因となったようだ。
 いかに国鉄勤務の経験があったとはいえ、駅長を引き受けたばかりの頃は、右も左もわからず苦労の連続だった。辞めたいと思ったことも一再ならずあったが、そのたびに信夫さんが助けてくれ、困難を切り抜けてきた。
〈「駅ひとつ受持つというのは大変ですよ。私なんか、トウちゃんが陰で教えたり手伝ってくれるからやっていけるんです。この駅も、委託のなり手がなく、みんなが『やってくれ』って言うから引き受けたんですが、初めの一年間は泣きました」〉〈「いろいろ苦労もあるけれど、私はじょうぶだし、飯山線が好きだから、当分離れられそうもないですね」〉
 正乃さんがいつまで駅長を続けたのかはわからないが、上境駅はその後、2006年7月に無人化され、同年12月にプレハブ風の味気ない駅舎に建て替えられた。当時と変わっていないのは、ホームに降り積もる雪の量だけである。


東大出てから三年目

▲「週刊新潮」’68年3月9日号
 続いても国鉄の駅長の話題を。民営化後のJR北海道は慢性的な赤字経営に喘いでいるが、かつて「国鉄マン」といえば、社会的な声望もある憧れの職業だった。「週刊新潮」9日号では、そんな国鉄マンのなかでも、東大出身というエリートの北海道での奮闘ぶりを追っている。
 舞台は函館本線の豊沼駅。大正11年に信号所として開業し、昭和22年にようやく駅に昇格した、砂川市の郊外にある小駅だ。
〈弱冠二十七歳の駅長サンが誕生した。東京大学法学部出身の長野隆さんがその人。三年前、東大からも百人受けて十五人しかはいらなかった国鉄の“狭き門”をくぐった“若きエリート”の一人なのだ〉と紹介されているが、いかに「駅長」とはいえ、この頭脳明晰な逸材にとって、北の田舎駅が「適材適所」であるはずがない。
〈国鉄には戦前から、入社早々の大学出“幹部候補生”に駅長や助役の仕事を体験させる“伝統”があった〉〈銀行ならさしずめ窓口勤務。国鉄営業の第一線で責任を持たせ、管理職としての訓練を早くつけるため〉という事情があったのだ。人手不足のため、この伝統は10年ほど途絶えていたのだが、この年から復活したのである。
 この人事に驚いたのは、本人よりも助役だったようだ。
〈札幌鉄道管理局から「東大出の二十七歳の人を、次の駅長として赴任させる」という連絡を受けた助役氏は緊張した〉〈「将来は局長から大幹部にもなる方だから、現場の長として働くのはこれが最初で最後になるはず。実務にはベテランがいるから、せめてここでの体験を後々までいい思い出にしてもらえるよう努力しよう」〉と決心したのだった。
 助役の言葉通り、若き駅長には出世コースが約束されていた。だいたい2年以内に地方鉄道管理局の課長となり、その後は地方局部長―本社課長―地方局長―本社局長……。長野氏と同じ東大出身の佐藤栄作元首相は、30代半ばで大阪鉄道管理局長に就いている。
 着任から1カ月余り。いわば腰掛けポストながら、長野氏の仕事ぶりは勤勉そのもので、エリートの驕りは微塵も感じさせず、同僚や地元の人から愛された。今後の抱負を聞かれると、〈「昇進のことなど考えていません。今は駅長の仕事に全力を尽すだけ。それからどこに回されようと本望」〉と、これまた謙虚な回答が。親子ほども年齢が違う助役は〈「最初の一週間は少々クタビレたが、今はもう軌道に乗った。仕事熱心だし、性格も明るくて働きやすい人」〉と褒めちぎる。〈「これからは酒の飲み方を教えるくらい」〉とのコメントが微笑ましい。
 平成5年に無人化された豊沼駅は、発着する電車も乗降客も少なく、ローカル線のような寂れようである。かつてこの駅に濃密な人間ドラマがあったことを、どれだけの人が記憶しているだろうか――。


オホーツクの追風いっぱい

▲「週刊朝日」’68年3月1日号
 北海道のウィンタースポーツといえば、上質なパウダースノーを楽しめるスキーとスノボが双璧だが、「週刊朝日」1日号には、一風変わった遊びが紹介されている。
〈雪の斜面をぶっとばすスキーも爽快だが、身体に帆をつけて湖上を快走するスキーは、夢幻的で美しい〉
 ここは浜頓別町のクッチャロ湖。1月から3月にかけては、湖面が完全に雪と氷で覆われ、広大な天然のスケートリンクができあがる。町の助役が考案したという「帆かけスキー」は、幅3メートル、高さ1・5メートルほどの帆を背負い、風の力で滑る新しいスポーツだ。〈オホーツク海から冬の季節風が吹出すと、帆かけスキーはシーズンだ。追風を帆いっぱいにはらんで突っ走れば、時速30キロから40キロぐらい出る〉という。
 巨大な帆と一体となった人たちは、まるで大凧に張り付けにされているようにみえる。このスポーツで町の活性化を図ろうと、〈色とりどりの帆を役場で貸出して、観光宣伝に役立てている。お次は、ソリを帆につけた湖上ヨットも考案中〉とあるが、結局、ブームは長続きしなかったようだ。
 近年、多くの外国人観光客が、冬の北海道の幻想的な白い風景を求めて訪れている。インバウンド向けのアトラクションとして、この帆かけスキーを復活させれば、「インスタ映え」もするし、かなりの人気を集めると思うのだが。


流氷を追ってオホーツクをゆく

▲「週刊現代」’68年3月7日号
 オホーツクが舞台の話題をもうひとつ。「週刊現代」7日号が、この冬の流氷パトロールに初出動した巡視船「宗谷」を追っている。
〈今年も、オホーツクに流氷が押しよせる季節になった〉〈沿岸の人々は、流氷の到来が早いといっては心配し、遅いといっては、なにか物足りなさを感じる。ここでは、流氷は、住民の生活ときってもきれない関係にあるのだ〉
「宗谷」は1月30日に釧路を出港。乗組員54人と観測員3人にとって、約2週間の厳しい任務が始まった。
〈氷を求めて北へ進路をとる。北海の風は冷たい。三時間ずつ四交代、二回の毎日だが、いつ氷にぶつかるかもしれないし、見張りもやめるわけにはいかない〉〈三日目、晴れていればカラフトものぞめるオホーツクのまっただなかで、やっと流氷群にぶつかった〉〈宗谷が進むたびにガガガッと船体に氷がぶつかる。うすぐろく広がった海に水玉模様をえがいて、冷たい氷の塊が水平線まで広がっている〉
 流氷群のなかでは、ゴムボートをおろし、氷の直径、厚さ、面積などを調査する。〈これらは、漁船の海難予防のための基礎調査であり、海図をつくるための貴重な資料となる〉のであるが、誤って海中に転落すれば、命の危険にさらされるハードな仕事だ。
「宗谷」の数奇な運命にも触れておこう。1938年に建造されたのち、軍艦として激戦地へ駆り出された。終戦後は56年から62年まで、6回にわたって南極観測船の任務を担い活躍。あの樺太犬タロ・ジロを運んだのもこの「宗谷」である。78年に退役するまで、実に40年の長きにわたって激務を全うし「奇跡の船」と称された。現在は東京・お台場の「船の科学館」で余生を送っている。一般的に船舶は使用年数が20年を超えると「長寿」とされるとのことだから、戦争、南極、氷海を乗り切った「宗谷」の頑健ぶりに、改めて驚きを禁じ得ない。