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1968年5月


十勝沖地震の惨状と教訓  
 東日本大震災から7年が経過したが、被災地の復興はまだ道半ばといった印象だ。この間、熊本地震も起き、両地域では今も多くの人が仮設住宅での生活を余儀なくされている。南海トラフをはじめ、いつ未曾有の大地震に襲われるか予断を許さない状況下、世界屈指の地震列島が向き合う恐怖はこれからも消えない。「週刊朝日」1968(昭和43)年5月31日号では、函館と青森に甚大な被害をもたらした5月16日に発生した十勝沖地震の惨状を伝えている。函館の場合、被害の拡大を招いたのは、人災の側面もあったようだ。

「ハゴダテが沈むかと思った」

▲「週刊朝日」’68年5月31日号
〈「ひゃあ、たまげたあ。ハゴダテが沈むかと思ったあ」〉〈「んだナ。外へ出て股ひろげてふんばっでだげど、前へつんのめりそうだったあ」〉
 地震の翌日、地盤が弱いとされる宝来町のある飲食店で交わされた会話である。マグニチュード7・8、関東大震災級といわれた十勝沖地震は、函館市民を心底震え上がらせたのだった。
 以下は飲食店の店主、中村みつさん(35)の体験である。
〈あわてて外へ飛出した。店の前の舗装道路が、大きく波打っているのが見えた。夜になって襲った余震の時は、桜の大木にしがみついた。見ると、そこらじゅうに人がすがりついている。泣く子を背負った母親が、悲鳴をあげている。みつさんのすぐ前の大木にすがりついていた男は、よく店にくる常連だったが、笑うどころではなかった〉〈停電でウルシを流したように真暗闇になった町中の家やビルが異様な轟音をたて、電線がヒューヒューと鳴る中で、みつさんはただ目をつぶってブルブル震えていた〉
 函館市内で最も大きな被害に見舞われたのは、青函連絡船の桟橋近くの若松町一帯だった。ここは昭和33年に市が海岸を埋め立てた場所で、魚や青果の市場などが軒を連ねる市民の台所となっていた。その埋め立て地のはずれ、海べりに建つ青函工業では、6人の工員が作業中だった。
〈岸壁際の道路へ走り出そうとすると、幅三メートルの舗装道路が、亀裂を生じ、猛烈な勢いで裂け目から水と砂を吹きあげ海の中へ沈んでいった。あわてた六人は反対側へ逃げようとしたが、そこには幅二メートルほどの亀裂がパックリと口をあけ、ゴウゴウと海水が流れ込んでいる。しかも、一人の男がはまり込み、助けてくれっ、ともがいている〉
 この男性は青果問屋を営む田浦謙一郎さん(47)。幸い、九死に一生を得たのだが、誰がどうやって助けたのか、青函工業の工員は、まったく記憶にないという。みな無我夢中だったのだろう。気が付くと、青函工業の建物は完全に崩壊していた。
〈穴の中は砂が海水にかきまぜられて、泥になっていた。小柄な田浦さんは胸まで泥につまってしまった。足を動かし、もがけばもがくほどズルズルと引込まれていく。死ぬ!田浦さんは一瞬思った〉
 田浦さんと同じように、死の恐怖を味わった人があふれていた。
〈道路は網の目のように裂けて、そこに通行人が、悲鳴をあげている。婦人の多くは、地をはいながら駅の方へ、駅の方へと逃げた〉
 元来、函館は地震の少ない土地柄で、〈こんどのような強震は大正二年二月二十五日の尻屋崎沖地震以来〉ということであったから、パニック状態に陥った人が少なくなかったのも無理からぬ話である。


ゆっくり崩れ落ちた鉄筋校舎
 若松町一帯では約200戸が被災した。町内に対策本部が設置されたが、集まった住民の怒りは収まらない。埋め立て地を商店らに売却した際、こんな経緯があったからだ。
〈当時、市はかなり強腰で、土地を買うには三か月以内に家を建てる条件を付けた。被害者の中には「ムリやり家を建てさせられた」という人もいる。最初から地盤沈下が心配されたが、市が大丈夫だとタイコ判を押したのだという〉
「これは人災だ」と主張する住民に対し、市側は「これは天災です」の一点張り。〈「函館では予知せざる地震ですからね。買ったんだって埋立地とわかっているわけだし……。ともかく地震が強すぎたんですよ」〉と繰り返すばかりで、まさに木で鼻を括ったようなお役所的な対応だ。商売の一等地を失った住民にとっては、お役所の冷淡な対応がダブルパンチとなって痛みに変わった。
 下町の若松町だけではなく、市内では地盤が安定しているとされていた、山の手地区にある私立函館大学の校舎も無残に倒壊した。写真をみると、校舎の中央部分から崩れ、1階が完全に圧し潰されている。この校舎は2年前の昭和41年に完成したばかり。4階建ての堂々たる鉄筋ビルで、それだけに関係者のショックは大きかった。
 地震発生時、ちょうど第一時限の授業が始まったところで、学生課長の大野和雄講師は1階の事務室にいた。
〈大野さんは男子職員をうながして外へ出た。その時、まるでスローモーション映画を見るように、一階が崩れた。真ん中あたりにタテにひび割れして、二階から四階がゆっくりその上に落ちてきた。さいわい、一階は事務室や教授控室などばかりだったので下敷きになった人はいなかった〉
 3階で講義を受けていた鈴木正俊君(19)は、7人の負傷者のひとり。〈廊下を走って、らせん状の非常階段に出た。彼が二階あたりまで降りてきたとき、はげしく揺れる階段からふり落され、地面にたたきつけられた。骨盤骨折、全治二カ月の重傷を負った〉
 真新しい校舎がもろくも崩壊したのを目の当たりにし、集まった人たちからは〈「多分、設計のミスだべ」〉と、ここでも人災を疑う声が飛び交った。大野学生課長も、力なくこうつぶやいた。〈「もう一度すばらしいビル校舎を建てねばならないでしょう。こんどこそはがんじょうなヤツをね」〉
 地震発生の翌日、現地調査班を北海道と青森に送った東京大学地震研究所の森本良平教授はこのような見解を示した。
〈不思議なのは、地震の名称が「一九六八年十勝沖地震」と決ったのに、実際に歩いてみると、十勝に近い方はほとんど被害らしい被害がないのです。逆に西へ来るほど、被害が大きくなるようだ。気象庁は震源の位置を「襟裳岬南南東百四十キロ」と発表しただけで、経度をいわないが、本当の震源は、もっと西へずれているのではないか〉
 かように地震のメカニズムを解明するのは、現代の最新技術をもってしても難しい。昨年12月、政府の地震調査委員会は「十勝沖から択捉島沖の千島海溝で、今後30年以内にマグニチュード9級の巨大地震が起きる可能性は7〜40%」と発表した。その日が来ないことを願うばかりである。


北大出身ニセ札作りの知能

▲「週刊新潮」’68年5月11日号
 北大生といえば、昔も今も北海道においては一目置かれる存在といえるが、半世紀前にはエリート一家育ちの北大卒業生が不可解なニセ札騒動で逮捕され、「異色の事件」として世間の注目を集めた。事件の背景を追った「週刊新潮」11日号の記事をみていこう。
〈浅草にある映画館『トキワ座』の売場係、大谷清子さん(22)は、その男から一万円札を渡されると、何の疑いもなく、入場券とツリ銭を差し出した〉
 この時点で、大谷さんはニセ札であることに気付いていない。ところが、男は挙動不審で、館内に入ろうとせず、大谷さんが注視していると、やにわに逃げ出したため、改めて手元の札を確認したところ、紙質の違いや裏面の写真のズレを発見したのだった。堂々と作品を鑑賞していれば、犯行が露見しなかった可能性が高いと思われるが、男の小心な一面が見て取れる。
 あっけなく逮捕された男は、札幌市にある「北海製罐」に勤務する新妻勲(28)。
 昭和39年に北大農学部を卒業し、同社では研究所で缶詰食品の分析、製造に従事していた。
 映画館での使用が初犯ではなく、浅草署の調べにより、〈彼は静岡県清水市で開かれたカン詰業界の研修会に、同僚数人と出席したあと、ひとりで上京、すでに東京駅構内の売店、食堂で、二枚のニセ札の使用に成功していた〉ことが判明。〈男が所持していたのは、ニセ一万円札七枚、“本物のカネ”はニセ札で受け取ったツリ銭ばかり〉だったという。浅草署の刑事課長は、呆れ顔でこう話す。
〈この四月から、残業のかたわら、会社の複写機でコピーし、自宅で絵具を使って彩色したものらしい。北大出身だそうだが、いまだに動機もよくわからん。作ってみたら、意外と精巧にできたので、これなら実際に使えるんじゃないかと、単純に思ったらしい〉
 また、その後、警察が札幌手稲の自宅アパートを捜索した結果、本箱の裏側から200枚近くのニセ札も見つかった。これほど大量のニセ札づくりに手を染めていたとはいえ、新妻はカネに窮乏していたわけではなく、動機は謎に包まれたままであった。周囲から聞こえてくるのは、〈「女性関係もほとんどなく、金銭的に不自由しているとは思えない」〉〈「上司や同僚に不満をいったこともない。新製品の開発などで成果をあげれば、社内でも大いに認められる、日の当たる職場ですよ。そのことは本人も自覚しているハズ」〉といった、新妻の真面目な性格を伝える声ばかりだ。酒色やギャンブルに興味はなかったようで、〈独身の自炊生活の無聊を慰めるのは、時折の出張と、大学時代からの趣味であるマンドリン演奏〉という地味な生活であった。
 家庭環境も申し分なかった。〈父親は小学校の校長まで勤めあげた元教員で、三年ほど前に定年退職、北大出身の二人の兄も、ともに教員〉というインテリファミリーで、長兄は〈子供の頃から手先が器用で、白墨を彫って軍艦を作ったり、ブローチを作ったりしていました。それが高じてあんなものを……〉と声を詰まらせる。
 北大時代の主任で、就職の斡旋もしたという小幡弥太郎教授は〈「まったく、プラモデルでも作るつもりで偽造していたんじゃないか」〉と分析するが、実際、新妻にとってニセ札づくりは、平凡な日常の寂寞を埋めるスリルを味わうためのゲームだったのかもしれない。


“新東京名所”の店開き

▲「週刊朝日」’68年5月3日号
 コンクリートジャングルといわれる東京とはいえ、半世紀前はまだ都心でも「空」がみえる場所のほうが多かった。そんな時代に、華々しく誕生したのが地上36階建ての霞が関ビルだった。「週刊朝日」3日号のグラビア特集が、オープンまもない「都心の摩天楼」の魅力を伝えている。
 モノクロ写真とはいえ、ほとんどの窓に灯がともった夜のビルは、スタイリッシュで美しい。写真説明では〈ニューヨークの国連ビルを思わせる〉とたとえている。
 次ページの写真は、36階の展望回廊「パノラマ36」から虎ノ門の街並みを俯瞰する外国人の親子。霞が関ビルだけが群を抜いており、高層ビルの少なさに時代を感じる。ビルを施工したのは三井不動産。三井広報委員会のHPによると、展望回廊は大変な人気だったようで、〈連日、多くの人が詰めかけ、その盛況ぶりは当初予定していた初期の赤字をほとんど補うほどのものだった〉という。
〈日本ではじめての百四十七メートルという高いビルだけに、昭和四十年秋の着工以来いろいろな話題を投げて、開館すると同時に、早くも都内観光バスの“新東京名所”の一つに組みこまれた〉
 今でいうスカイツリーのような存在だったのだろう。〈敷地は一万六千三百十九平方メートル。地上三十六階、地下三階、エレベーター三十五台など、記録的な数字は、数えあげればきりはない〉という圧倒的なスケールで、20数社の約1万5千人がこのビルの住人となった。
 その後、老朽化が目立った霞が関ビルは、平成元年から6年をかけて大規模な改修が施され、現在も官庁街のランドマーク的ビルとして君臨している。高さでは後発のビル群に見劣りするものの、「日本初の超高層ビル」の風格は失われていない。