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1968年9月


50年前の「沖縄8・15」  
 今年の8月15日は平成最後の終戦記念日。新元号に変われば、昭和はさらに遠くなり、痛ましい戦争の記憶もいっそう風化してしまうに違いない。「サンデー毎日」1968(昭和43)年9月1日号では、まだ米軍統治下にあった沖縄の「8・15」の表情を追っている。終戦から23年、日本で唯一、地上戦が行われ夥しい数の命が奪われた悲劇の島は、どんな思いでこの日を迎えたのだろうか――。

摩文仁の洞穴

▲「サンデー毎日」’68年9月1日号
 サン毎の記者が最初に訪れたのは、糸満市の摩文仁(まぶに)の丘だ。1945(昭和20)年6月23日、多数の兵士と民間人がここで逃げ場を失い、沖縄戦の組織的戦闘が終結した地である。
〈アメリカ軍に追いつめられた日本人の文字どおり“最後の地”だった。丘のうしろは海だ。もう逃げようがない〉
 退路を断った摩文仁の海は、かつてここが死屍累々の地獄絵図に血塗られた地であることを忘れさせるほどに美しい。その海を、若い観光客が「きれいだなあ」と、はしゃぎながら眺めている。23年前の悪夢はまだ生々しく県民の脳裏に焼き付いていたが、一方では観光地として再生を図らねばならない沖縄の現実もあった。記者は摩文仁の洞穴へ向かった。
〈私は岩の一つに腰を下して闇と向かい合っていた。目が暗さになれると、まわりにころがっている岩がおぼろげにリンカクをあらわしてくる。どうかするとその岩の形は、まるでその上に人間が座っているかのようにみえた。私は思わず身ぶるいした。二十三年前にこの岩に座っていた人の肉体が実感として感じられた〉
 23年前、岩に座っていた人物は、光の届かぬ洞穴の中で自決したのである。
 洞穴の入口でアメリカ人の若いカップルがこんな会話を交わしていた。
〈「こんな穴に本当に日本人はかくれていたの」〉と尋ねる彼女に、彼氏は肩をすくめて〈「そうさ」〉と一言。短い言葉の中には、どんな感情が込められていたのだろうか。
 続いて訪れたのは、米軍基地の街・嘉手納(かでな)。記者を迎えたのは、想像を絶する戦闘機の爆音だった。
〈“うるさい”といったなまやさしい感じではない。耳が痛いというのでさえない。なにかからだが押えつけられるような感じなのだ。B52の離発着する音のすさまじさは、実際に聞いてみないと、ちょっとわからない〉


原水禁大会の歌声
 農業を営む池原景亮さん(39)は、〈「話もきこえないんです」〉と諦めたようにつぶやく。池原さんは「燃える井戸」の所有者だった。
〈井戸が燃え出したのは昨年九月だった。一時は火を水に近づけただけで燃え上がったという。原因は米軍嘉手納基地からしみ出した原油だ。あわてて水道を引いたが、井戸が使えないことは畑仕事には痛手だった。水代が高くつく上に、消毒用のカルキが作物に悪影響を与えるかもしれないからである〉〈米軍側は補償をしたいといってきたが池原さんは応じる気はない。金額があまりに安い上に、金ですむこととも思えないからだ〉
 井戸被害だけではなく、池原さんは基地拡張で畑を接収されており、弟は戦死、弟の嫁は米軍機の機銃掃射で犠牲になった。もはや米軍と話し合う気力も失せていたのであろう。池原さんが井戸から汲み上げた水には、きついガソリンの匂いがしみついていた。
 那覇市内の神原小学校の校庭に、5千人もの人波が押し寄せた。原水禁世界大会沖縄大会に参加した人たちだ。
〈たくさんの赤旗がやや強い風に揺れた。沖縄の旗、日本本土の旗〉〈やがて五千人の「原爆許すまじ」の大合唱。この歌声がここ沖縄の空に響くまで、二十三年の年月がかかった。一種の感慨があたりを包む〉
 会場には戦後生まれの若者の姿も。沖縄大学の学生は、力強くこう語った。〈「われわれはあまりにも基地のある状態になれすぎてしまった。こういう機会に反戦への意志を新たにします」〉
 壇上では決意表明が続く。〈「沖縄問題を民族問題としてとらえるだけではだめだ。沖縄からのB52の撤去、基地の撤廃、日本への即時全面返還……沖縄を国際平和のキーストンにしよう」〉というメッセージには、万雷の拍手が贈られた。
 4年後の1972(昭和47)年5月15日、沖縄は悲願の本土復帰を果たしたが、平成の最後の年を迎えても基地問題は解決の糸口すらみえず、いぜん「本土」との溝は深い。昨年7月、国連本部で核兵器禁止条約が採択されたが、日本は署名を拒否した。50年前のあの日、原水禁世界大会に集い、高らかに歌声を響かせた人たちが存命ならば、どんな思いを抱いているであろうか。


“心臓の英雄”の愛妻法

▲「週刊現代」’68年9月19日号
 この年の8月8日、日本初の心臓移植手術を成功させた札幌医科大学の和田寿郎教授。一躍、「時の人」となり、週刊各誌を賑わせていた。「週刊現代」19日号は、和田教授のプライベートに焦点を当て、意外な素顔を紹介している。
 和田教授の出勤は早い。7時半には病院に姿をみせる。
〈「一刻も早く医者の顔をみて、安心したい気持ちが強いわけですからね。私たちも、少しでも早く患者を安心させてやる義務があると思うんです」〉というのが早朝出勤の理由だ。患者の中でも、移植を受けた宮崎信夫君(18)の容体は特に気がかりだったに違いない。
 手術成功のインパクトは大きく、その後、8月末までに32人が肉親の同意書を添えて心臓の提供を申し出てきたという。しかし、一方では〈あの“世紀の壮挙”以来、じつになんとも、いやらしい愚劣な嫉妬、羨望、中傷が和田教授におそいかかった〉のだった。この時点では擁護派が多数を占めていたものの、その後、宮崎君が術後83日目に「急性呼吸不全」で死亡してしまったことで、移植の必要性、ドナーの脳死判定の是非などを巡り、さまざまな疑義が噴出。これを機に「心臓の英雄」と礼賛していた週刊各誌が、手の平返しで批判の集中砲火を浴びせることになったのは皮肉だ。同年12月、和田教授は殺人罪で告訴されたが、2年後、札幌地裁は不起訴処分としている。
 本題に戻ろう。〈医局では、親愛の情をこめてひそかに“ブルドーザー”“建築会社の社長”などと呼ばれている和田さんの、精悍な表情からは想像もできぬが、日曜日になると庭の芝生を刈り、年に一回は、医局の独身男女を、自宅の庭に集めてパーティーを催すなど、和田さんには意外な面が多かった〉
 13歳下の周子夫人は元日本航空国際線のスチュワーデス。海外の空気を知っていただけに、アメリカ生活が長かった和田教授とは波長が合い、アメリカナイズされたライフスタイルに親しんでいたようだ。
 大変な愛妻家として知られ、〈「私も若いころはずいぶんモテたものですが、テキ(夫人)は国際線のホステスですからね。モテかたもきっと国際的だったろうと思いますよ。ね、キミ、そうじゃないのかい」〉と、相好を崩してのろける場面も。自宅の庭で、夫人と寛ぐ姿は「戦士の休息」といった感じだ。
 宮崎君の死後、バッシングの嵐に晒されたときも、愛妻の存在が大きな支えになったことは想像に難くない。


学者陛下 大雪高原を行く

▲「週刊文春」’68年9月21日号
 天皇陛下の生前退位が迫り、平成の時代も終わりを告げようとしている。北海道150年の節目が平成のラストイヤーとなったのも何かの縁といえるだろう。両陛下は8月3〜5日の日程で「北海道150年記念式典」にご出席されたほか、北広島、利尻島を訪問されたが、半世紀前には昭和天皇・皇后両陛下も札幌の円山競技場で開かれた「開道100年記念式典」にご出席され、その帰途、大雪山まで足を伸ばされた。大雪高原で植物観賞を堪能される様子を追った「週刊新潮」21日号のグラビアをみていこう。
〈陛下は予定を三十分もオーバーされた。道を戻られたり、わざわざ回り道をとったりされる陛下をご覧になって、皇后さまが、ホホホ……と笑い声を立てられた。それは生物学者である天皇陛下にとって、いちばん楽しげに過ごされた二時間半だった〉
 このとき、陛下の来道は3回目。〈これまで二度の北海道ご視察で見ていない土地をということで、旭川から稚内へと回られた〉という。
 陛下が植物採集を楽しまれた場所は、層雲峡から約28キロ山奥に入った高原地帯。写真をみると、舗装もされていない草生した山道である。ヒグマが出没するような危険な場所ではあるまいが、蜂や虻などはそこかしこに飛んでいそうで、お付きの方々の気苦労は並大抵ではなかったろう。案内役は北大名誉教授の館脇操氏と札幌商科大助教授の鮫島和子氏が務めた。
〈陛下は主としてヨツバヒヨドリバナの変種、皇后さまは地衣類、蘚苔類をご採取になったが、何のためらいもなく地面にヒザをつき、植物に見入られる天皇陛下のお姿が印象的だった〉
 多忙なご公務に追われる陛下にとって、北海道の雄大な自然と向き合う間だけは、ほんのひととき「私人」に戻ることができたのかもしれない。
〈前日まで霧のような雨が続いていた高原が、この日ばかりはカラリと晴れ上がって、北の国の初秋を両陛下に十分味わって頂いたことだった〉
 もし大雨に見舞われていたら、大雪山訪問は中止になっていた可能性が高い。お天道様にも祝福された北海道100年の巡幸であった。


続発する北海道の炭鉱事故

▲「週刊朝日」’68年9月20日号
 北海道150年の歴史の中で、石炭産業は北海道に発展をもたらしたが、しかし、同時に多くの悲劇を生んだのも石炭産業であった。
「週刊朝日」20日号では、道内屈指の産炭地である夕張市の北海道炭砿汽船で9月3日に起きた落盤事故を伝えている。
〈夕張鉱業所第二砿で、落盤により八人が生埋めとなり、全員が遺体で運び出された。町村北海道知事も見かねてか、北炭の原功一社長に保安体制の確立を要求する文書を送るという、異例の措置を取ったほど〉
 というのも、わずか1カ月前に北炭平和砿で、坑内火災により31人もの犠牲者を出したばかりだったのである。
〈ことしになって北海道の炭鉱の重大災害は、これで六回目で、死者は百四十九人。去年同期の一・七倍だ。「人災」と指摘される事故も目立ってきた〉とあるが、その背景には、石炭産業の再編成が検討されるなかで、〈なんとか出炭増によるコスト減をはかって、生残ろうとするヤマが多い〉との事情があった。同記事は〈生産第一主義にともなう目に見えない圧迫が、切羽に働く坑内員の危険への判断をにぶらせてはいまいか〉と警鐘を鳴らしている。
 今回の重大な落盤事故は、未然に防げる可能性が高かった。〈落盤事故もすでに採炭準備中の八月六日に、近いところで起きている。その時は、幸い天盤の裂け目や前ぶれがあって早く気づき、一人のけがもなかった〉という軽微な事故があったからだ。
 北海道の炭鉱で事故が絶えないのは、九州の産炭地と比べ、〈@急傾斜の炭層が多い A採炭箇所が深い B地熱が高い C通気も不十分 D断層、しゅう曲が多い E自然発火の危険度も高い Fガスの湧出量は五、六倍〉と、悪条件が多いからという指摘もあった。結局、その後も重大事故が根絶されることはなく、1990(平成2)年に三菱石炭鉱業南大夕張炭鉱が閉山し、炭都・夕張からヤマの火は完全に消えたのだった。そして来春4月1日、かつては石炭列車が行き交い、炭鉱マンを運んだ石勝線夕張支線も139年の歴史に幕を下ろす。