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1967年7月


丸山ワクチンは有効か  
 いまや広く市民権を得て、多くのがん患者に希望を与えている「丸山ワクチン」だが、まだ世に出たばかりの半世紀前は、その有効性を巡り、疑義を唱える声も少なからずあったようだ。「サンデー毎日」1967(昭和42)年7月30日号が、ワクチンの開発者である日本医大皮膚科の丸山千里教授と国立東京病院の長倉四郎博士の激しい論戦を報じている。

結核患者への良心的大論戦

▲「サンデー毎日」’67年7月30日号
 論戦の舞台となったのは、結核治療の専門紙「療養新聞」。きっかけは、丸山ワクチンのことを雑誌や新聞で知った国立療養所・大湊病院(青森県)の患者たちが、主治医や丸山教授に対し、ぜひワクチンを使ってほしいと申し出た一件だった。
〈抗結核剤のバス、ストマイ、ヒドラジドなどが、きかなくなった耐性結核菌の保菌者が、はかばかしくない治療のため、強くワクチンの使用を希望した。丸山ワクチンは副作用がなく、結核の治療効果をあげる――といわれていたからだ〉
 現在は抗がん作用が知られているが、当初は結核治療の特効薬として注目されていた。患者たちにすれば、藁にも縋る思いで丸山ワクチンに望みを託したのだろう。
 まだ厚生省の認可が下りていなかったこともあり、療養所の医師たちは、はじめはワクチンの使用を躊躇していたものの、前年の11月から67人の希望者への投与に踏み切った。その理由は、〈@研究に着手してから二十年以上を経過しており、日本の医学界の重鎮だった故塩田広重博士が、純国産のすぐれた研究としてドイツの外科学会に報告したことがある A皮膚結核にはすぐれた効果のあることが、皮膚科学会や学会誌に発表されている〉ことがわかり、安全性に問題なしと判断したためだ。このニュースをキャッチした「療養新聞」が、丸山ワクチンについての見解を長倉博士に求め、その内容が否定的だったことで、論争の火蓋が切られたのである。丸山教授はこう反論した。 〈もともとワクチンと化学療法剤とでは、結核に対する攻撃の仕方が全く違う。前者が直接結核菌を殺すのに対し、ワクチンは、まず菌に対する抵抗力をつくり、ついでにこの抵抗力が結核菌をジワジワと締めつけ、ついに無毒化して排除するという間接法をとる〉
 紙上での論戦は続く。
〈ワクチンは化学療法の効果には遠く及ばず、化学療法の有効例にはワクチンは不必要〉〈基礎的な結核免疫の増強は認められたが、すでに化学療法剤を使い果たした難治、重症の結核に、どの程度の効果を示すかは微妙である〉(長倉博士)
〈@化学療法とワクチン療法では、その作用が根本的に相違するのに、これを同じモノサシで比較するのは適当でない A結核のような慢性疾患に対する効果を短期間(実験では三ヵ月)で判定するのは、まことに不利な条件だ。大湊病院などで着々と効果をあげている(セキやタンの消失、菌の陰性化など)。臨床成績を見てほしい〉(丸山教授)
 両者とも一歩も譲らぬ姿勢を示してはいるが、あくまで結核の根治を願う気持ちの発露であり、そこにドロドロした感情はみえてこない。なぜなら、〈丸山教授は、かつて篤学の長倉氏に学位論文の提出をすすめ、長倉博士誕生に一役買った人で、長倉博士のワクチン批判は、いわば「大義、親を滅す」の心境で行なわれていたものといえよう〉という背景があったからだ。
 その後、結核治療は長足の進歩をみたが、丸山ワクチンが残した功績は大きい。丸山ワクチンの効果や歴史については、本誌で「八十路ろうろう日記」を連載中の井口民樹氏が、著書でわかりやすく説明している。

日本一の赤字線

▲「サンデー毎日」’67年7月9日号
 タイトルの「日本一の赤字線」というと、国鉄時代に相次ぎ廃止された北海道のローカル線が連想されるが、舞台は九州の長崎県佐世保市。「サンデー毎日」9日号が、この不名誉な称号を背負う国鉄柚木線の寥々たる現状をルポしている。
 柚木線は松浦線(現在の松浦鉄道)の左石と柚木を結ぶ3・9キロのミニ枝線で、途中駅は無人の肥前池野のみ。投入されている車両は、定員わずか46人のレールバスで、〈四十一年度のこの線の定期客は一日平均七十六人。切符を買う客は十一人の計八十七人。お客のほとんどが定期代の安い学生ばかりだ〉という状況だから、〈きょう1日の切符の売上げ130円ナリ〉との写真説明も納得だ。売り上げを計算する駅員の手元に「当日締切金」と書かれた木箱があり、1枚だけの紙幣が存在感を示しているが、よくみると懐かしい100円札であった。
〈ダイヤも朝と夕の二往復ずつ。一日四往復だけだ。四十年度の営業係数は四千三百六十四。百円の営業収入をあげるのに四千三百六十四円もかかるというわけである〉
 JR札沼線の末端区間(浦臼―新十津川間)は、1日1往復しか列車が走っておらず、「始発列車が最終列車」などと揶揄されているが、これは当時の柚木線よりも末期的ということなのだろう。
 前身の佐世保軽便鉄道が開業したのは大正9年。昭和11年に国鉄に買収された。石炭輸送のために敷設された路線で、〈七人もの駅員がいた柚木や肥前池野は、黒いダイヤの積出し基地として脚光を浴び、レールバスも一時間おきに走っていた〉という賑やかな時代もあったものの、頼みの炭鉱が閉山すると凋落の一途を辿った。石炭産業の衰微に伴い、鉄道が廃止に追い込まれたのは、北海道の歌志内線、幌内線、万字線なども同様だ。
〈辛抱強い国鉄もとうとう音をあげた。門司鉄道管理局は「できれば四十二年度中に柚木線を廃止する」との方針を決めたのだ〉とあるが、その言葉通り、この年の8月末をもって廃止されている。ただ、実際は7月の水害で全線不通になっており、復旧工事が行われないまま最後の日を迎えた。廃止の危機に瀕する日高線(鵡川―様似間)もそうだが、自然災害に見舞われた大赤字路線が早々に見捨てられるのは、昔も今も変わらない。
 その後、「日本一の赤字線」の称号は美幸線(美深―仁宇布)が引き継ぎ、「日本一」を売りにした当時の美深町長が銀座の街頭で切符を売るなどして生き残りを図ったが、奮闘むなしく昭和60年9月に廃止となった。

本社を裏切った“敏腕課長”

▲「サンデー毎日」’67年7月23日号
「サンデー毎日」23日号が、札幌で起きた大胆な手形不正事件を報じている。
〈七月五日、有価証券偽造、同行使などの疑いで札幌東署に逮捕されたのは、札幌市豊平にある多田建設=本社・東京都江東区、東証二部上場=の北海道営業所長代理兼営業課長、小畑英夫(34)〉とあるが、小畑は不在が多かった所長の目を盗み、41年4月から〈約束手形五十余枚を偽造、額面総額一億三千九百万円を乱発〉していたという。
 本社取締役で北海道営業所長を務めていた庄司克三氏は東京住まいで、月に20日以上は札幌を留守にしていた。そんなわけで、肩書は所長代理とはいえ、小畑が実質的な所長であり、社印や所長印を無断で持ち出すくらいは容易いことだった。
〈札幌信用金庫など二店と当座取引を契約、知人を通じて五百万円の手形割引を地元の中堅企業、丸石建設の石丸修二社長(55)にたのんだ。石丸社長はひきうけるかわりに、自分にも一千万円使わせてくれるよう逆に小畑にたのみ、結局額面千五百万円の多田建設の偽造手形が小畑から振出された。石丸社長は取引銀行の北洋相互銀行で割引き、小畑はこのうち五百万円を受け取った〉
〈これに味をしめた小畑は、それから丸石建設が倒産するまでの一年の間に書換えの手形をふくめ五十余枚、額面総額一億三千九百万円を丸石建設あてに振出した。この手形のほとんどは石丸社長が決済していたが、小畑はリベートとして、しめて二千万円近い金を受け取っていた〉
 手形の仕組みに詳しくない人間にとっては、金の流れが少々わかりにくいが、小畑は手形偽造といった稚拙な犯罪を、本気で隠し通せると考えていたのだろうか。深川市出身の小畑は、深川高校を卒業後に上京。商事会社勤務を経て、38年に多田建設に入社すると、仕事ぶりが高く評価され、北海道営業所開設と同時に営業課長として赴任した。本人にすれば「故郷へ錦」というような誇らしい心境だったのだろうが、この順調な出世が人生を狂わせる契機になったのかもしれない。
〈こうなると頭を持ちあげてきたのが事業欲。深川市で多田建設と関係なく住宅建築を請負い、この事業資金に最初の五百万円を投入した〉
 不正で得たカネをサイドビジネスに流用していたわけだが、カネは派手な私生活によっても消えていった。〈毎夜、サッポロの歓楽街すすきので札ビラを切った。五日朝、逮捕されたのも、愛人の部屋だった〉とあるが、酒色に惑溺して転落するのは、会社のカネに手を付けた人間のお決まりのパターンといえる。
 一方、小畑に翻弄された感がある丸石建設は、〈割引いた現金を事業資金に使っていたが、小畑が勝手にマチの金融機関に割引かせた二百万円の手形を決済できず、五月十七日に倒産した〉と、不幸な結末が待っていた。石丸社長は〈「正しい手形だとばかり思っていた。私はだまされていた」〉と肩を落とし、無念を滲ませた。
 丸石建設の倒産に驚いた北洋相互、北海道相互の両行は、残った5050万円の手形決済を多田建設本社に要求したが、驚いたのは本社も同じ。本社側は〈北海道営業所での当座取引をいっさい認めていなかった〉と主張したが、銀行側は〈そんなことは会社だけの内規。実質的な責任者が正規の印カンを使って振出した手形なのだから、本社に決済の義務がある〉と真っ向から反論し、裁判沙汰に発展した。
〈東京と北海道はジェット機で一時間といっても、まだ遠いということを実感した。管理がきびしい一流企業は別として、伸び盛りの中堅企業は、よほどシッカリしないと、この距離がおとし穴になりますね〉と話すのは、東京に本社を持つ中堅企業の北海道支店長だが、いまも札幌は転勤族にとって人気ナンバーワンの赴任地だ。特に「すすきの」には、堅物の箍をも緩ませる“魔力”が潜んでいるような気がしてならない。

銀座よさようなら

▲「週刊現代」’67年7月20日号
〈去る七月一日の朝まだき、大通りを行進するパレードの鼓笛隊のマーチが、目覚めの遅い銀座雀をおどろかせた〉〈行列の“中身”は、イキでスマートが身上の電通社員有志千二百人。三十三年におよぶ銀座ずまいから築地の新社屋への本社移動あいさつをかねての、大“デモンストレーション”であった〉
 スーツ姿の男たちが、風船を手に、銀座を練り歩く様子は圧巻である。報じているのは「週刊現代」20日号だが、ライバル誌の「サンデー毎日」「週刊文春」を発行する毎日新聞と文藝春秋も同時期に銀座から移転しており、写真説明では〈マスコミ関係者の“銀座からの疎開”が続いた銀座は、ますます仕事の場ではなくなっていきつつある〉と論評している。
〈荷物の運搬はもっぱら深夜に行われた。日数にして延べ六日。費用二千万円〉
 さすがは天下の電通らしいスケールであるが、パレードの演出にも電通らしさが垣間見えた。 〈プラカードには「銀座の皆さん今後ともよろしく」と、“花の銀座”への未練らしいものも、ちょっぴりのぞく。ところが、それも新社屋に近づくにつれて、「築地の皆さんこんにちは」の文字に変わる芸のこまかさ〉
 新社屋の設計を手掛けたのは丹下健三氏。2002年に現在の本社ビル(汐留)が完成するまで使用された。ビルが立派になるにつれ仕事量が増え、過労死を生み出すほどのブラックな職場環境が常態化していったのだろうか――。