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1967年9月


両親殺し『逃亡者』の潜行16年  
 2010年に殺人罪に対する公訴時効が廃止されたが、それ以前はドラマや小説の主人公よろしく、まんまと逃げおおせたケースも少なくなかった。「週刊現代」1967(昭和42)年9月21日号では、滋賀の僻村で両親を殺害したのち、時効までの16年に及ぶ逃亡生活を経て、故郷に“凱旋”した殺人鬼の軌跡を追っている。男の潜伏先は北海道だったというのだが、どんな思いでどんな生活をしていたのだろうか――。

凶行後、妻に書き置きを残して

▲「週刊現代」’67年9月21日号
 16年前の7月2日、両親を惨殺して行方をくらました中根富雄(41)は、時効から1年後にふらりと故郷の滋賀県朽木村へ帰って来た。いまは一般人になったとはいえ、つい最近まで、尊属殺人で全国指名手配されていた鬼畜である。中根が姿をみせたのは同じ村の麻生部落にある親戚宅であったが、中根の生家がある生杉部落の住民たちは、いつこちらに現れるかと、戦々恐々と落ち着かぬ日々を過ごしていた。
〈「両親殺しても故郷はやはり恋しいわな。しかしワシらも変な気持ちやで。まさか殴ってやろかというわけにもいかんし、反対によう帰った、よくぞ警察の目ゴマかしたいうて勲章つけてやるわけにもいかんしなあ……」〉〈「年寄り連中は、あんな大それたことして、なんで戻ってきたんやと批判的やけど、若いもんは長いこと苦労したんやからかわいそうやと同情的でんな。ここの部落は夜でもカギかけてへんさかい、コトンという物音ひとつにも神経がピリッとしますんや」〉
 声を潜めて話す住民の言葉に苦渋が滲む。麻生部落で中根との接触に成功した滋賀日日新聞の記者によると、〈中根の態度はふてぶてしく、ついに一言も「世間を騒がせてすまぬ」といわなかったばかりか、二言目には「六法全書を知っているか」と、まるで“英雄気どり”だった〉という。
 全国的に注目された事件ではあったが、犯行の動機は些細なことだった。
〈事件の直接の原因は、中根が組み立てていたポータブル・ラジオである。イロリ端でガーガー、ピーピー騒がしい音をたてる息子に、父親はカンシャクを起こした。磯次郎さん(当時66歳)は、いきなり中根の持っていたラジオをひったくると、雨戸をあけて地面に叩きつけた〉
 ラジオづくりは唯一の趣味。父親の短絡的な行動に腹を立てる気持ちもわからぬではないが、殺意を抱いたのはラジオの件だけが理由ではない。〈父親が恋女房のフサさんに辛く当たるのが気にくわなかった〉こともあり、蓄積された鬱憤が爆発したのだった。
〈マキ割りと出刃を手にして父親に襲いかかり、メッタ打ち。血しぶきがとび散った。物音におどろいた母親のぬいさん(当時59歳)が、仲裁に入ろうとしたところをブスリ〉
 なんとも凄惨な場面だが、幸い妻のフサさん(当時22歳)は、出産準備のため、近所の実家に帰っており不在だった。まもなく対面する我が子のためにも、蛮行を思いとどまることはできなかったのか。
〈中根はアルバムの中の自分の写真を燃やし、妻あてに便箋二枚の書き置きを残した。「子どもは堕ろしてくれ。財産は処分して生活費に充てよ。達者に暮らしてくれ」〉
 その後、中根の消息は杳として知れなくなってしまったのである。


北海道の飯場を転々と
 時効成立後、出頭した中根の供述によれば、滋賀を出たあと、甲府を経て北海道へ渡ったという。北海道では「中堀一雄」の偽名を使い、夕張、苫小牧、札幌、十勝など各地の飯場を40ヵ所以上も転々とした。
〈逃走三ヵ月目、札幌市内で、警官の職務質問にひっかかった。さすがに「もうダメだ」と観念しかけたが、うまくいいのがれた〉〈身の縮む思いをした中根は、いらい警察とはいっさいかかわりを持たないよう気をつかった〉  中根の警戒ぶりは徹底していた。病院で身元が割れぬよう、ケガのリスクが高い炭鉱は避け、荒くれ者が集まる飯場では、無用なトラブルに巻き込まれぬよう、酒や女にはまったく手を出さなかった。
 その後、警官の職質は6回を数えたが、眼前の指名手配犯を見破れずじまいだった。今の時代なら、警察の失態に非難が集中するであろう。
〈逃亡八年目くらいのとき、札幌のパチンコ店で、自分の写真をみたが、あまりに似ていないのでおかしくなったという。それもそのはず、手配写真は、中根が徴兵検査のころのものである〉
 こうした「敵失」にも助けられ、平穏に月日は過ぎていった。六法全書を購入したのは、ゴールがみえてきた時効の2年前。そして、時効の年数を確認すべく、大胆にも札幌地裁のなかの弁護士相談室に足を運んでいる。
〈「友だちが傷害で人を大ケガさせてるんですが」〉〈「傷害は時効七年だからね」〉〈「ところが、相手がそれで死んでしもうたら……」〉〈「そりゃ十五年だよ」〉
 こんな会話が交わされたのである。
 結局、中根が出頭したのは16年目だった。1年遅かったのは、〈「万一計算ちがいがあっては」と念をいれた〉ためというから用心深い。
 社会復帰を果たした中根が、なにより望んでいたのは妻子との再出発だった。しかし、再婚こそしていなかったものの、妻は復縁の打診を拒否した。フサさんの兄は、妹の苦悩をこう代弁する。
〈「この部落では、大半の者が富雄はもう死んだものと思うとったし、子どもにもそういってあった。そこへ突然でっしゃろ。妹は混乱して、一時は床についたほどですわ」〉
 中根は妻子のもとを訪ねることなく、生杉部落にある両親の墓参りもしないまま、ひっそり夜汽車で北海道へ旅立ったという。時効を手にした達成感は、埋めがたい喪失感によって萎んでしまったに違いない。


夫を刺した長唄の女師匠

▲「週刊朝日」’67年9月1日号
 終戦から22年、半世紀前はまだ多くの人が戦争の影を引きずりながら生きていた。「週刊朝日」1日号で取り上げている長唄の女師匠も、戦争に運命を翻弄された一人といえる。働き者の良妻が夫に凶刃を向けた背景には、どんな事情があったのか。函館支局記者のルポを追っていこう。
 事件の舞台は函館市万代町の二軒長屋。宮下正一さん(60)を包丁で刺殺した妻の高橋カツヲ(55)が、放心したように立ちすくんでいた。警察が駆け付けたとき、カツヲは〈「あなたが悪い。あなたが悪いのよ」〉と繰り返していたという。
 函館生まれのカツヲは、幼いとき両親とともに樺太へ渡った。
〈小学校を出てすぐ花柳界に入って半玉になり、三味線をおぼえた〉とあるが、中学にさえ行けなかったのだから、一家の生活は困窮していたに違いない。その後、お座敷の馴染み客と結ばれ長男が誕生。貧しいながらも幸せな日々を送っていた。しかし、夫が戦場にとられたのを機に、人生の歯車が狂い始める。カフェ勤めで糊口をしのぐうち戦争は終わったが、夫は生死すらわからない。そんな鬱々とした状況下、重大な決断を迫られることとなった。
〈やがて樺太から本土への引揚げが始まった。海を渡る船には「子持ちの夫婦」でなければ乗れぬという。彼女はあせった。そのころ、よく店に来て、何かと面倒をみてくれる人がいた。宮下さんである。彼はいった。「形だけ夫婦ということにして船に乗っては……」〉
 この提案に、カツヲが首を横に振る理由はなかった。両者の利害が一致した結果の「偽装夫婦」であったわけだが、函館へ戻ったのち、それは「本物の夫婦」に変わり、長女も授かった。苦難を分かち合う孤独な男女に、親愛の情が芽生えるのは必然といえよう。
〈宮下さんには、これといって手職がなく、市の失対事業に出ては、日銭をかせいだ。暮しの足しにと、女は昔とった三味線のさおをにぎり、お弟子さんを集めて長唄を教えるようになった。貧しいながらそれは楽しい時期だった〉
 こうして函館で新たな一歩を踏み出した二人に、突然の不幸が襲いかかる。昭和38年、病弱だった長女の美代子ちゃんが夭折したのだ。愛娘の死が、夫婦関係を破滅に向かわせる契機となった。
〈宮下さんの生活は荒れた。酒におぼれた。働いた金は飲み代に消え、家には一銭もいれない。三日、四日と帰って来ないことも多くなった〉
 カツヲが我慢ならなかったのは、大事な弟子の前で酔いつぶれて寝てしまう、夫の醜態であった。酒臭い宮下さんを怖がり、20人以上いた弟子は次々と去っていき、最後は4人だけに。思い余って別れ話を切り出すと、〈「おれから逃げると殺すぞ」と刃物をみせておどす〉ため、憔悴したカツヲはノイローゼになってしまった。金策を口実に家を出ていこうとする夫をみて、とうとうカツヲの堪忍袋の緒が切れた。
〈足が台所に向き、出刃包丁をにぎりしめていた。切っ先を宮下さんに向け身体ごとぶつかっていった。刃先は右わき腹を十七センチの深さでえぐった〉
 現場となった玄関先の土が、大量の血を吸って黒ずむほどの地獄絵図に。犯行後、カツヲは生い立ちから何から包み隠さず供述した。
 ルポは〈女の不幸は、調べる刑事の心にもしみた。女は、書類とともに函館地方検察庁に送られた。が、この書類には追っかけて、情状酌量の意見書がつけられるはずである〉と結んでいる。
 もし前夫が帰還していたとしても、もっと幸せな人生が待っていたという確証はないが、凶行に走ったのが終戦記念日だったのは、何か因縁めいたものを感じずにはいられない。


北海道“カニ族”

▲「サンデー毎日」’67年9月3日号
 北海道は夏の観光シーズン真っ盛りだが、最近はどこへ行っても目立っているのは外国人観光客ばかり。北海道が若者たちの憧れの地だった時代は、もう昔語りになってしまったようだ。「サンデー毎日」3日号では、いまや“絶滅”して久しい「カニ族」たちを特集している。
 同誌は「カニ族」が誕生した背景について、〈若者たちの行動力と合理主義、北海道観光夏の陣、この二つの接点に大量発生した〉〈道産子が、旅行する若者たちにたてまつった愛称?〉と解説している。本当に道産子が命名したのかは定かでないが、大きなリュックを背負っているため列車の通路をまっすぐ歩けず、カニ歩きにならざるを得ないことから、こう呼ばれるようになったという。
 深夜の札幌駅、寝袋に収まった若者がズラリと並ぶ写真が目を引く。〈野宿にはなれっこの若者に“上等”な宿として占領される〉との説明があるが、今の時代であれば、駅の施錠時間に追い出されるに違いない。
 関西から来た大学生の旅行スタイルはこんな感じだ。
〈所持金一万円ナリ。リュックの中身は、一週間は山で過ごせる食糧と、装備がぎっしり。二週間で北海道を一周する計画だが、一度も旅館やホステルに泊まらず、全部野宿という〉〈「学生のうちに歩けるだけ歩いておかないとねェ。金をためてなんていってたら、いつまでたっても来られやしないよ」〉
 若いエネルギーが羨ましい。さすがに寝袋派は男性ばかりだが、「カニ族」自体は、7対3で女性の比率が上回る。北海道という響きは、乙女の好奇心を刺激するらしい。女性の場合は、〈駅の一時預かり所はリュックの山。リュックを預けて“街着”でサッソウというのも多い〉とのこと。
 そんな「カニ族」に対し、道産子の反応は賛否両論であったようだ。
〈「なんだい。あのフーテン・スタイルは。北海道は未開のエゾ地じゃないぞ。もっとマシな格好をしたらどうだ」〉と眉を顰める向きもいれば、〈「あれだってお客様だ。やがて背広にネクタイをきちんとつけてやってくる」〉との擁護派も。昨今の中国人観光客のように、多額のお金を落としてくれる上客ではなかったかもしれないが、ステレオタイプではない北海道の魅力に触れ、心から北海道を愛してくれたのが「カニ族」だった気がする。