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1967年11月


人間・吉田茂  
 半世紀前の10月20日、戦後の日本を代表する一人の大物政治家が亡くなった。その人物は吉田茂。89歳の大往生だった。「ワンマン」という和製英語の語源となるほどの独裁ぶりが批判されたことも事実だが、情誼に厚く、その豪放磊落な人柄が多くの人を魅了した、並外れたスケールのリーダーであったことは間違いない。「週刊朝日」1967(昭和42)年11月3日号が、追悼特集で宰相の知られざる一面を伝えている。

一銭銅貨はまだあるのかね

▲「週刊朝日」’67年11月3日号
〈「宰相は頑固であるべきだ。世論など気にしない」〉
 いかにもワンマンを押し通した吉田らしい言葉である。
 吉田の頑固さは、頑迷固陋というわけではなく、どんな相手に対しても絶対に主張を曲げない姿勢の形容であった。たとえば、朝鮮戦争の頃、執拗に日本の再軍備を求めてきた米国務省顧問ダレスとのやり取りが有名だ。吉田は「経済復興が先だ」と反論し、頑としてダレスの言を受け付けず、ラジオ番組のなかでダレスをこうコキおろした。
〈「なんだ、この間まで名も知れない軍人だったくせにおかしくって。あまり威張ってやがるものだからね……」〉
 ただ、この頑固さは人の好き嫌いにもはっきりと表れており、〈李承晩元韓国大統領が米軍の招きで来日した際、李ぎらいの吉田さんは、歓迎会にも出席しなかった〉ことも。その一方で、気に入った相手のことは、とことん面倒を見る親分肌であった。
 イギリス大使時代、若い書生が燕尾服を持っていないことを知ると、ポンと30ポンドを手渡した。高級服を仕立ててもお釣りがくるほどの額である。ところが、書生はその金をカメラの代金に充ててしまった。
〈後日、吉田さんに「エンビ服はできたのか」と聞かれた書生は真っ青になった。しかし事情を知った吉田さんは「よし、まずオレを撮れ」といっただけで、また三十ポンドくれたという〉
 このように情に厚い一面はあったが、いわゆる庶民派宰相ではなかった。
〈選挙で高知に帰った時も、地元のお百姓さんが、いかつい手で体にさわり、握手を求める。吉田さんは顔をしかめて逃げまわった〉
 悪意はなかったのだろうが、農民差別とも受け取られかねない。良くも悪くも、浮世離れした「お殿様」だったのである。
 浮世離れといえば、当時の金銭価値をまったく理解していなかった。
〈「一銭銅貨はまだあるのかね」〉と真顔で聞き、書斎のテーブルを作らせた際には、15万円の請求書をみて、〈「一万五千円のハズだ」〉と納得しなかった。「カップラーメンは400円」発言で、庶民感覚ゼロぶりを露呈した孫の麻生太郎氏などカワイイものだろう。
 一見、近寄りがたい威厳を漂わせる吉田だが、大のジョーク好きで、よく周囲を和ませていた。主治医の佐藤陽一郎・慈恵医大助教授が、吉田邸に自生するタケノコを食べすぎ、下痢になってしまったときのこと。吉田は〈「フフフ……ともぐいで当たりましたね」〉と声をかけた。最初、佐藤氏は共食いの意味を理解できなかったが、あとで〈「タケノコ→タケヤブ→ヤブ医者」を意味するジョーク〉と気づき、苦笑したという。
 ジョークは死の直前まで続いた。8月末、心筋梗塞の発作で倒れた際、見舞いに駆け付けた甥の武見太郎・日本医師会会長に、吉田は微笑を浮かべこう言った。
〈「ご臨終に間にあいましたね」〉
 悠揚と冥界へ旅立った吉田は、北朝鮮の脅威の前になす術がなく、醜聞まみれの今の自民党を、天上からどんな思いで眺めているだろうか。


トゥイギーがやって来た!

▲「サンデー毎日」’67年11月5日号
〈小枝のような、という形容詞がニックネームになった女の子。二年前までは、イギリスの美容院で床清掃をやっていた。ファッション・モデルになったとたん、ミニスカート・ブームにのって、あっという間に世界的名声〉――というプロフィールを持つ18歳の少女が半世紀前、日本中に旋風を巻き起こした。
 少女の名はツイッギー。NHK朝の連ドラ「ひよっこ」でも、ツイッギーブームを生き生きと描いていたが、「サンデー毎日」5日号が、初来日時の熱狂ぶりを伝えている。なお、現在はツイッギーの表記が一般的だが、「サン毎」記事引用時は原文のままトゥイギーと区別させていただく。
 当日の羽田空港。〈空港署の鈴木警備課長はいたってのんびりと構えている。たしかに、人出はふつうの日と変わらない〉とあるように、1966年6月のビートルズ初来日時と比べると、ファンの出迎えはかなり少なかったようだ。しかし、待ち構えるマスコミの数は大変なもので、ツイッギーがマネージャー兼フィアンセのジェスタンとともにタラップから降り立つと、〈二人を囲むおびただしいストロボのセン光とシャッター音。それは、空港検疫所入口までの約一キロを小さな台風のように移動した〉という混乱状態に。そんななか、若い警備員が〈「サギだ、サギだ」〉と叫ぶ一幕があった。なぜなら、〈トゥイギーは、ヒザ上ならぬヒザ下何aかの黒いキュロット・スカートをはいていた〉からだ。
 空港から宿舎のヒルトンホテルに移動すると、そこでもすぐ大勢のカメラマンに囲まれ、ツイッギーはとうとう泣き出してしまった。一行を乗せていた日本交通ハイヤー部の鈴木忠雄運転手はこう振り返る。
〈隣の男にしがみついて、大粒の涙をポロポロこぼしていました。化粧はおちるし、ツケマツゲはバクバクになっちゃうし…でも、こわさ半分、うれしさ半分で泣いたんじゃないかと思いますね〉
 500人以上を集めた翌日の記者会見は、物々しい警戒態勢のなか行われた。〈この日は期待にたがわず超ミニ姿。ヒザ上三十aはあろうかという真紅のベルベッドのツーピース〉で登場し、会場がどよめいた。以下は記者との一問一答。
〈羽田に着いたとき、ミニスカートをはかなかったのは?〉〈「ロンドンでは、あんなスタイルが流行しているんです。ミニスカートほどじゃないけど」〉
〈泣いたそうだが?〉〈「疲れていたの。きょうは大丈夫よ」〉
〈おおぜいの報道陣をどう思う?〉〈「すばらしいわ。いい気持です(笑)」〉
〈ほしいものは?〉〈「しあわせ」〉
〈しあわせとは?〉〈「良い家庭をもち、父母ともに健在で、なんの心配もないこと」〉
 日本滞在中は過密スケジュールをこなし、ミニスカブームを置き土産に英国へ帰っていった。世の女性、そして男性をも「しあわせ」にしたことは間違いない。


公団横領犯の札幌の優雅な夜

▲「週刊現代」’67年11月2日号
 公団職員による巨額横領というと、2001年に発覚した「アニータ事件」が思い出されるが、半世紀前にも、5千万円もの大金を拐帯したうえ逃亡先の札幌で豪遊と浪費を繰り返し、世間を騒がせた公団職員がいた。ただ、8年間にわたってアニータに貢ぎ続けた青森県住宅供給公社の職員とは違い、阪神高速道路公団神戸建設部の主査だった清水賢一(29)は、1カ月も経たぬうちに、あっけなく御用となったのだが。札幌で新生活を始めようとしていた清水とはどんな人物だったのか、「週刊現代」2日号の記事をみていこう。
 事件の経過はこうだ。
〈九月十六日、清水は部長の公印を使って額面一千万円の小切手を作成。神戸銀行で現金化し、休暇をとって姿を消した。同建設部では一週間たっても出勤しないのでやっと不審を抱き、清水が扱っていた帳簿を調べてみたところ、最後の一千万円のほか、工事関係業者に支払うべき四千万円もの穴があいているのにはじめて気がついた〉
 なんとも大胆不敵な犯行であるが、公団の公金管理も杜撰と言わざるを得ない。職場が慌てふためいている頃、清水は北海道へ飛んでいた。
 札幌で潜伏先に選んだのは、豊平区水車町の高級マンション「エルム荘」だった。入居時の清水の様子について、管理人はこう証言する。
〈「私が部屋をお見せしました。すぐ借りようと決め、二万二千円の家賃を一年分と、敷金二ヵ月分をポンと払ってくれました。新しい家具ばかり、ずいぶん買い揃えましたねえ」〉
 清水の常軌を逸した羽振りの良さは、管理人の印象に強く残っていたものの、〈慎太郎刈りのヘアスタイル、趣味のいい背広、年より若く見える良家の御曹司タイプ〉という外見もあって、この時点ではまだ疑念を抱くには至らなかったようだ。部屋を借りるにあたり、もちろん本名は名乗らず「青木洋」との偽名を用いた。エルム荘への支払いに約30万円、調度品の購入に約100万円。それでも三井銀行札幌支店に850万円の預金があり、早速すすきの通いが始まった。清水が贔屓にしていた高級キャバレー「P」のホステスA子さん(22)は、清水の遊びっぷりをこう振り返る。
〈「たいてい一晩に二万円くらい使ったわね。カンバンになってから、女の子も連れてほかの店へ飲みに行ったり、食事に行ったり。そのあげく、おれのアパートに来ないか、なんてよく誘ってたわ。青木さん(清水の偽名)に指輪を買ってもらった人もいるし、関係があったのも三人や四人じゃないでしょうよ」〉
 不正で手に入れたカネを派手な女遊びで費消するというのは、転落男のお決まりのコースといえる。しかし、清水は遊び呆けるだけではなく、札幌での先の生活も見据え、着々と動き始めていた。


家庭を省みなかった清水
 清水が考えていたのは美容院経営だった。美容院「K」の経営者で「P」の常連だった井村実氏(仮名)と知り合い、アドバイスを求めた。井村氏によれば、清水は〈日本観光という会社のほか、多方面の事業に関係している青年実業家〉と詐称していたという。
〈「彼は“金の心配はいらないから、あなたが経営してくれないか。利益は折半で”というので、私は知り合いの不動産屋に頼んで、建設中のマンションを見つけさせました。いちばんいい場所で、代金は五百八十万でしたよ」〉
 このうまい話に井村氏は飛びついた。ここでも清水の御曹司ふうの風貌が役に立ったのだろう。
 詐欺師の才を備えた清水は、生来のワルだったようだ。
〈一流商事会社の九州支店長を父に持ち、四人兄妹の長男。わがままに育てられた。甲南大学を卒業。自動車セールスマンとなったが、交通事故を起こした。これが、現在の妻・和子さん(29)と知り合うきっかけになった〉
 和子さんは、清水の父親が大阪支店次長を務めていたときの部下。その縁故から、神戸市内の有力な役人であった和子さんの父親に、事故の後処理を依頼したのだ。結婚後、清水夫妻は男児を授かり、清水は義父の口利きで阪神高速道路公団に転職した。紹介者が神戸の顔役だったこともあり、〈上司も安心して、清水に建設部の出納を任せていた〉のである。
 しかし、新婚早々、ギャンブル狂だった清水の放蕩ぶりがエスカレートしていった。和子さんの母親は、清水の行状についてこう話す。
〈「麻雀で毎晩、帰るのは深夜。競馬も大好きで、和子はひどいノイローゼになったのですよ」〉
 結局、和子さんのノイローゼは悪化するばかりで、ついには精神異常まできたし、病院と実家を往復する生活に。その間も清水は競馬に大金を注ぎ込み、夜な夜なキャバレー通いを続けた。家庭を一顧だにせず、分不相応な遊興にうつつを抜かす清水が、やがて公団のカネに手を付けたのは必然といえよう。
 話を札幌に戻そう。美容院経営はトントン拍子に進むかと思えたが、兵庫県警が10月9日、清水を全国に指名手配したのを機に状況は一変した。夕刊に顔写真入りで報道されると清水は狼狽を隠せず、すすきの勤めの女性から警察に「タレこみ」電話がありジ・エンド。もし美容院を開店できたなら、神戸から遠く離れた北の地で、どんな人生を歩むつもりだったのだろうか。