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1968年11月


昇給した鑑別所不祥事件の主役  
 昔も今も「官」の常識は「民」の良識と乖離している印象を禁じ得ないが、「週刊新潮」30日号では、19歳の少女に淫行を働いた旭川少年鑑別所の教官が、なんと減給ではなく特別昇給の厚遇に浴するという、旭川市民を激怒させた呆れた騒動の顛末を報じている。身内に寛容なのがお役人体質とはいえ、なぜこんな処遇が罷り通ったのか――。

天地神明に誓って

▲「週刊新潮」’68年11月30日号
 特別公務員の暴行・陵虐容疑で逮捕されたのは、旭川少年鑑別所観護課観護係長・法務教官の川村正(47)。
〈「収容中の少女にいたずらをする教官がいるが、彼女らは少年院送りになるのがこわいので黙っている」〉との噂が流れ始め、旭川地検の特捜班が内偵を進めた結果、9月に出所したばかりの杉山文子さん(19・仮名)の証言を得て、川村の逮捕に踏み切ったもの。杉山さんは〈「あれは九月五日の夜でした。私は病気があるので夜中に二回起こしてもらうことになっていましたが、あのときは自分で目がさめたのです。おナカの下のほうがナマあったかくて、誰かがモゾモゾ触っているみたいなので、ゾッとしました」〉〈「薄暗い電気の下で、そっと目をあけて見ると、わきに川村先生がきちんと正座して手を入れていたんです。びっくりしたのと、こわいのとでノドがひきつったようになりました。やっとの思いで寝返りを打って、先生の手を避けたのです」〉と“恐怖の夜”を振り返る。
 当時、少年鑑別所は道内に4カ所あり、そのなかでも旭川は、〈法務省から「標準運営施行施設」に指定された、いわば“モデル鑑別所”であった〉という。それだけに、関係者のショックは大きかったようだ。
 当初、川村は〈「たしかに部屋に入りました。しかし肌に直接触れていません。起こそうとしたとき、もし粗相をしていてはと考え、シーツを手でサーッとなでてみただけです」〉と弁明し、佐々木利雄所長に対して〈「天地神明に誓って、彼女に触っていません。揺り起しただけです」〉と潔白を訴え、頑なに犯行を否認していた。確たる証拠がない事案だけに、いかなる処分を下すか判断に迷う部分もあったのだろうが、軽微な「規則違反」にとどめ、逮捕前に事もあろうか特別昇給まで認めたのは、あまりに身内贔屓の大甘裁定と言わざるを得ない。
 なぜこのような馬鹿げた判断に至ったのか。地検に先立ち川村から事情を聴取した上司は、苦々しい表情でこう説明する。
〈「川村君は、中野高等無線を卒業後、復員して刑余者の施設で二年働き、二十四年に旭川に来ました。以来、ウラもオモテもないマジメ人間で通ってきました。所長も私も、その彼の言葉を信じ、規則違反の処罰だけにとどめようとしたのです」〉


威信を傷つけぬために
 その「規律違反」とは、〈“もし部屋の中に立ち入るときは、二人以上の職員が立ち会わねばならない”という規則を犯した〉ためで、川村の特別昇給を認めた件については、〈これは去る六月に、過去一年の勤務評定をした結果、決ったことなのです。これを今さら取り下げるということは、ハッキリとレッテルをはるようなものだ、という所長の配慮でこうなったのです」〉と説明する。まさに悪しきお役所仕事の典型といえるが、しかも、〈「少年院に送られるのがこわくて今まで黙っていたのではないのです。試験観察で退所するときに、偉い先生(注=塚田課長)が、“五日のことを日誌で知ったが、申しわけないことをした。どうか許してくれ”といい、“できれば外に漏れないことが望ましい”という意味のことをいわれたんです」〉との杉山さんの告発により、組織ぐるみで事件を揉み消そうと画策していたことまで明らかになったのだから悪質極まりない。
 旭川地検の怒りのほどが、以下のコメントからもうかがえる。
〈「一般にこの種のケースなら任意出頭で行うところだが、川村を逮捕したのには、大きく二つの理由がある。もしこれを任意でするなら、一般の人から、同じ法務部内の事件だからナレアイに処理するのではないかと、あらぬ疑惑を招くかも分からない。部内の威信を傷つけぬため、あえてきびしくした。さらに、拘禁状態にある少女を、観護・教育指導する立場にある教官が間違ったことをしたという容疑であるから、断固、検事拘留の処置をとったのです」〉
 ともあれ、川村の破廉恥な行為が、旭川少年鑑別所の信用を失墜させてしまったことは事実だった。ある所員が涙ながらに苦しい胸中をこう吐露する。
〈「かつては敷地にサクもなかったことで、所長以下、十五人の所員がスコップを手にしてここまで来たのに、もうモデル鑑別所どころの騒ぎではありません。所員の家族は昼間は買物にも歩けない有様で、私など、今日もわざわざ雪の降る中を遠くの薬局にカゼ薬を買いに行く始末です」〉
 その後の裁判過程はわからないが、昇給の喜びも束の間、川村は退職金すら手にすることなく職場を去ることになったのだろうか。


北海道にゴールドラッシュ?

▲「週刊現代」’68年11月29日号
 かつて北海道でも「ゴールドラッシュ」という蠱惑的な言葉に沸き立ったことが何度かあった。「週刊朝日」29日号は、千歳鉱山で発見された新鉱脈の話題を伝えている。
 その場所は千歳市美笛。〈千歳鉱山千歳鉱業所は文字通り人里離れた山の中、美笛川のそばにある。一かたまりの鉱山住宅、山の斜面を利用した選鉱場、見ばえのしない坑口。どう見ても金のはなやかさにはつながらない〉という僻地だった。
 同鉱業の親会社である三菱金属鉱業が鉱脈発見を報告したのは、通産省で開かれた全国金鉱対策振興会の席上。〈粗鉱(金を含んでいる岩石)一トン当り二十五グラム、場所によっては四十キロという途方もない高品位の脈もあった〉とのニュースは関係者のみならず、世間を驚かせた。
 当時、年間40トンの金需要を賄うためには、16トンの国内産出量では到底足りず、ほとんどを輸入に頼っていた。しかも、高度成長期とあって金の需要量は右肩上がり。そのため、〈「輸入だけではなく、金山の再探鉱をしては」と同省も五カ年計画を立て、ことしから合わせて三十五億円を全国の金山に投入することにした〉のだった。
 千歳鉱山の概要にも触れておこう。
〈昭和十年から開発、月産四千トンの粗鉱を八十トンの精鉱にして瀬戸内海の三菱金属直島精錬所へ送り出す全国で一カ所の黒字鉱山。四十二年の実績は金六百四十六キロ、三億九千万円、銀と銅で約五千万円を生産〉という優良企業だった。そんなこともあって、谷口正採鉱課長は〈「いや別におどろきませんでした。ウチはもともと高品位のヤマですからね。従業員だって落着いたもんですよ。いつかは、ブチ当るだろうとみんなでいってましたから……」〉と、「世紀の発見」にも浮足立った様子はみられない。一方、ヤマをおとずれた東京本社の小野治郎八社長は、〈新鉱の名を明治百年、開道百年にあやかって「一〇〇年(とは鉱脈のこと)」としよう〉と張り切っていたのだが。
 ただ、すぐにゴールドラッシュが起こるかといえば、懐疑的な見方が強かった。
〈金脈は地質調査を行い、地形図を作って電気探鉱してみなければ海のものとも山のものともいえない〉〈「国際的にもトップクラスであることは確かだ。しかし鉱量が判明しないことには……。センセーショナルに注目されながら短期間で掘りつくされた例が、これまでにもいくつかあった」(札幌通産局)〉
 結局、千歳鉱山はこの4年後に金生産のピークを迎えたものの、その後は鉱石の品質低下が顕著になり、爆発的なゴールドラッシュは起きぬまま、昭和61年に閉山された。
 開道100年に、少しばかり道民の胸をときめかせた話題であった。


幕を閉じた心臓移植劇

▲「週刊朝日」’68年11月15日号
 わずか3カ月足らずの間に、これほどの天国と地獄を味わうことになろうとは、本人も想像していなかったに違いない。その人物は、8月8日に国内初の心臓移植手術を成功させ、一躍、時代の寵児となった札幌医大の和田寿郎教授である。山口義政さんから提供を受けた宮崎信夫君(18)の心臓が10月29日、ついにその鼓動が止まってしまったのだ。週刊各誌が世紀の心臓移植の幕切れを伝えたが、ここでは「週刊朝日」15日号のグラビア特集をみていこう。
 胸部外科学会に出席するため上京中だった和田教授は、急遽、札幌へ引き返し、翌日、宮崎さんの家に立ち寄った。
〈「一緒にいてあげれば良かったね。信夫君ごめんね」と和田教授は遺体の上に泣伏した。枕もとに宮崎君が読み残した『心臓移植』の本が置かれていた〉
 死因は喉に痰が詰まるという“事故死”と発表されたが、のちにこの死因や心臓移植の経緯を巡って多くの疑義が噴出し、マスコミは手のひら返しで和田教授批判の論調に変わった。
 和田教授は〈「信夫君、あなたは偉かった。日本の医学のために、希望のない病気を治すために、よく手術を受けてくれた。だけど終わっちゃったね。先生は、もっと多くの喜びを日本の人に、世界の人に知ってもらうために、また学会へ行くよ」〉と語りかけ、再び東京へ向かったのだが、宮崎君の症例を報告した学会は、案の定、重苦しい空気に包まれた。
 宮崎君の葬儀は盛大なものとなった。恵庭町(当時)の大安寺には、近隣住民が押し寄せ、黒山の人だかりが霊柩車を取り囲む様子は、大物政治家の出棺のようだ。
〈告別式には、町村金五・北海道知事らから贈られた花輪が並び、園田直厚相らからも弔電がとどけられていた。心臓提供者・山口義政さんの父親隆司さんが、一人離れたところで冥福を祈っていた〉
 このときはハッピーエンドとならなかったとはいえ、心臓を授受した2人の青年の尊い生命が、のちの心臓移植手術の発展に大きく寄与したことは間違いない。


ある対面

▲「週刊文春」’68年11月4日号
〈日本中央競馬会の手により、名馬の栄誉をたたえる銅像が建立された。しかもその馬はいまも元気に北海道の牧場をかけめぐっている〉
 その名馬は、浦河町の谷川牧場に里帰りしたシンザンだ。「週刊文春」4日号では、引退まもないシンザンが自身の銅像と対面した様子を伝えている。
〈快晴の京都競馬場。除幕式に列して対面した自分の銅像には、当然のことながら何等興味を示さず、ついこの間まで勝負におもむいた本馬場に気をとられてか、ややイレコミ気味〉
 当時はまだ8歳。五冠(皐月賞、ダービー、菊花賞、天皇賞・春、有馬記念)を制した血が騒いだのだろうか。一方、シンザンの育ての親である武田文吾調教師は銅像の出来栄えに感激し、〈「どうぞ皆さん、この名誉と栄光を忘れずに、馬を見守って可愛がってやって下さい」〉と感無量の面持ちで挨拶した。
 銅像の作者は、日展入選歴も豊富な三井高義氏。〈「今まで多くの馬を創りましたがシンザンのおもてにあらわさない闘志には悩まされました。こんなに難しい思いをしたことはない」〉と振り返った。
 ダートコースで雄姿を披露したシンザンにファンは大喜び。〈長旅の疲れで30キロもやせた〉ものの、力強い走りは健在だった。
 その後、シンザンは多くの活躍馬を輩出し、種牡馬の長寿記録を打ち立て、1996年に大往生を遂げた。まさに「無事是名馬」である。
 いまやシンザン像は京都競馬場のシンボルのひとつであり、1月にはシンザンの功績をたたえる「シンザン記念」が行われ、若駒たちの「出世レース」となっている。