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1967年6月


32歳で取締役に抜擢された実力社員  
 大卒の学歴が出世の絶対条件という風潮が強かった半世紀前にあって、北海道の地方新聞社が商業高校出身の32歳男性を取締役に大抜擢し、全国的に注目を集めた。その人物は、北海タイムス社の金子三千夫氏。本人は青天の霹靂だったようだが、なぜ並み居る先輩を出し抜き、彼に白羽の矢が立ったのか――。「週刊現代」1967(昭和42)年6月15日号が、仕事優先主義を貫いた金子氏の14年間の軌跡を追っている。

特ダネで札幌本社に栄転

▲「週刊現代」’67年6月15日号
 まずは金子氏の経歴をみていこう。
〈昭和二十八年、札幌商業高校を卒業して北海日々新聞(のちに北海タイムスと合併)に入社、社歴十四年で経営者のイスにすわった〉とある。旭川に本社がある北海日々新聞を選んだのは、「ブン屋」になりたいとの夢を抱いていたからだ。
 ただ、ローカル紙とはいえ、高卒のアンちゃんがいきなり記者になれるほど甘くはない。〈たまたまスポーツのわかる人がいなかったのが幸いしてスポーツ担当記者に採用された〉という幸運に恵まれ、スポーツのオフシーズンには、いわゆる“サツまわり”の助手を務めるようになった。他紙に抜かれまいと、深夜まで警察署に詰める日々。この夜討ち朝駆けの頑張りが運命を変える契機となり、翌29年、はやくも北海タイムスから声がかかったのである。
 ここでも金子氏の仕事に対する情熱は変わらなかった。〈一年間の校閲部勤務ののち配属されたのは岩見沢支局。地方紙のなかの、そのまた“地方記者”である。「サツのすぐまえの家をおがみたおして下宿させてもらいましてね。夜中に便所に立っても、窓から刑事部屋が見えるんです。電灯がついていると、気になってノコノコ出かけることがしばしばでした」〉
 7年間に及んだ岩見沢支局時代、31年に特大スクープをモノにし、それが札幌栄転につながった。事件の概要はこうだ。空知地方を襲った深刻な冷害の被災地を視察するため、広川弘禅農相を団長とする「冷害調査団」が岩見沢市役所を訪れたのだが、その移動中に代議士の一人が問題行動を起こしていた。市長室前の廊下にいた金子氏が、たまたま市長室での会話を聞き、それが明るみになったもの。金子氏が当時の状況を振り返る。
〈「代議士の一人が岩見沢署の次席を“おまえはメクラに免許証を出しているのか”とドナりつけているじゃありませんか。ヘンだな、と思って調べてみると、くる道中で日通のトラックが一行の車の前を走って、いくら警笛をならしてもどかない。アタマにきた地元出身、自民党の某代議士がとうとう追いつめてそのトラック運転手から免許証をとりあげてしまったのです。これは日通労組を怒らせ、免許証をとりあげるとは業務妨害だと国会でも問題になりましたが、最初の報道はわが社の“特ダネ”でした」〉
 結局、この騒動は、鳩山一郎首相が陳謝することで収束したのだが、今の時代ならば、議員辞職も避けられない暴挙だ。

徹底した北タイの合理主義
 札幌本社勤務を機に市政記者に昇格した金子氏だったが、〈朝、毎、読の“中央三紙”の“北海道上陸作戦”のあおりを受けて経営が急速に悪化した〉ため、会社の再建が焦眉の急となっていた。36年に地元財界に請われ、社長に就任した黒沢酉蔵氏は、〈「まったく想像以上のひどさでしたね。ろくに帳簿もそろっていないし、億を超える借金。銀行は取引ストップ。社員の給料は朝鮮人の高利貸しから借りてくるという乱脈さ」〉と話している。
 黒沢体制下、大胆な改革が実行された。それは「協同体イズム」という徹底した合理化策で、金子氏の活躍はここでも際立っていた。
 37年から40年2月までの地方支局長時代の働きぶりを、ライバル紙の読売記者はこう証言する。
〈「取材を一人まえ以上にやって、その暇に販売店をまわり、さらに各戸をまわって新聞の新しい購読者をふやすんです。岩見沢に再度、支局長としてやってきたときは“タイムス協会”という後援組織をあっという間につくったりして、これは編集だけで終わる男ではないと思いましたね」〉
 もちろん、社内でも金子氏の株が上がったことは言うまでもない。40年2月に本社販売局の販売連絡部長に登用されると、翌年8月にセールス局長、そして今回の取締役と、トントン拍子の出世コースとなった。
〈「前社長の黒沢さんがとなえたものですが、一口でいえば支配する者と支配される者という考え方をとらない体制のことです。協同体のなかには搾取はない。みんなが同等の社員です。その同等の社員のなかから実力のあるものが役員になって執行の責任を負う」〉と、「協同体イズム」の意義を語るのは竹田厳道社長だ。〈実力のある者が登用される一方、実力のない者はどんどん格下げされる〉厳しい状況のなかで、誰もが認める実績を積み重ねてきた金子氏が抜擢されたのは必然といえよう。
 900人を数えた従業員数も、この頃には約600人にまで減っていた。〈この六百人の能力査定の“最大のポイント”が「何部、新聞を拡張したか」〉〈印刷部門にいようが人事にいようが、記者であろうが、みんなに増紙のノルマがかかっている〉という荒療治が奏功し、〈一時は五億円の赤字をかかえた同社も、ことしははじめて黒字を出し、「日本一の地方紙をめざす」(竹田氏)ほどに態勢を挽回した〉のだった。
 とはいえ、時代の流れには抗えず、北海タイムスは1998年9月2日号をもって休刊に。タイムスの栄枯盛衰を見続けた金子氏は、その日をどんな思いで迎えたのだろうか――。

大鵬結婚披露宴の上客

▲「週刊新潮」’67年6月10日号
 稀勢の里の活躍によって相撲人気が再燃しているが、日本人横綱の次は、大鵬、北の湖、千代の富士クラスの道産子横綱が誕生してほしいものだ。「週刊新潮」10日号では、弟子屈町出身の大横綱・大鵬の豪華な披露宴の模様を伝えている。前日に誕生を迎えたばかりの大鵬は27歳、新婦の小国芳子さんは19歳だった。
 会場は帝国ホテルの旧館。本来なら一度に14の宴会が開ける1、2階の部屋をすべて借り切り、1千人以上の招待客を集めたのだから凄い。さすが「巨人・大鵬・卵焼き」と称されたスーパースターにふさわしいスケールだ。会場の規模も招待客数も〈「帝国ホテル始まって以来」〉と関係者を驚かせた。
 ただ、この数は「想定内の結果」であって、招待状は1500人に出していたという。
〈準備万端を進めたのは、萩原吉太郎北海道炭礦汽船社長を会長とする大鵬後援会だ。そこの竹田厳道事務局長(北海タイムス社長)によると、「たかだか相撲取の結婚式という声と、日本一の人気者にふさわしい結婚式という声の二つを考え合わせ、締めに締めた結果の人数」〉だったにもかかわらず、どうにか対応可能な1千人強に収まったのは、〈「実際の出席者は三分の二」〉との予測が的中したからだ。横綱の体面を立てつつ、ホテルのキャパにも配慮した、竹田氏の見事な按配といえるだろう。
 当初、マスコミは、秩父宮妃、高松宮夫妻、佐藤栄作首相といった多数の要人も一堂に会すると書き立てていたのだが、天下の大横綱とはいえ、これは実現しなかった。
〈「殿下が必ずお出になられるのは、やっぱり皇族方、旧皇族方のご範囲ですよ。よほどご懇意にされている方は別ですが。招待状?さあ……」(高松宮家執事)〉〈「招待状はもらいましたが、欠席の返事を出しております。総理夫妻自らおムコさん捜しに乗り出した場合は別として、原則として総理は結婚式には出ないことにしているのですよ」(佐藤首相秘書官)〉と、いずれもコメントは素っ気ない。
 披露宴を仕切る司会者は、大相撲中継の名実況で知られたNHKの北出清五郎アナウンサー。新郎側媒酌人は萩原氏、新婦側媒酌人は石田博英代議士が務めた。その萩原氏から〈「大鵬関は数年来地方巡業中、小国家の経営する旅館『栄太楼』に宿泊いたしました。その折に、芳子さんを見初めたのでございます」〉と、馴れ初めが紹介されると会場から拍手が起こった。秋田市の老舗旅館「栄太楼」は、現在も絶品ちゃんこが味わえる名店として人気を集めている。新婦の父親、敬二郎氏(49)と石田氏は、〈代議士の選挙区の秋田で長年“在県秘書”をやっている関係〉だった。
 式は順調に進行し、日本相撲協会・時津風理事長(元横綱・双葉山)の挨拶。
〈「今までお一人の時でもあんなに強かったのに、今後はお二人で、協力されては、どんな強みを発揮されるだろうかと……」〉
 なかなかうまいことを言う。理事長に続き、新郎新婦の郷里代表ということで、北海道の町村金五知事、秋田県の小畑勇二郎知事が登壇し祝辞を述べた。
 祝電の顔ぶれも豪華絢爛で、出席は見合わせた佐藤首相をはじめ、岸信介氏、松下幸之助氏ら政財界の大物のほか、野球選手、芸能人からのメッセージが続々と読み上げられ、改めて大鵬の華麗な交友関係を知らしめた。
 最後は二子山親方の手締めで、つつがなく式は終了したが、気になるのは総費用だ。〈締めて一千万円とも二千万円とも、あるいは一億ともいわれている。秋田市での披露宴、北海道、名古屋、大阪、福岡などの各地でも別個の披露宴がエンエンと繰りひろげられるそうで、そうなると一億説もあながちオーバーではなくなる〉と、スケールの大きさに圧倒されるが、費用について聞かれた萩原氏の返答もまた驚きだ。〈「大きな声ではいえんが、当日の祝儀でこんな費用まかなえちゃうね、ハッハッハッ」〉
 おカネも「残った、残った」ということで、最高の披露宴になったようだ。

“憂国”作家の“体験入隊”記

▲「週刊新潮」’67年6月17日号
 自衛隊の制服を身に着け、ポーズを決めている人物は、あの三島由紀夫だ。「週刊新潮」17日号に、4月中旬から1カ月半、陸上自衛隊に体験入隊した三島が手記を寄せている。
 陸自を選んだ理由について、〈これからの国土防衛に、陸上自衛隊はおそらく主役を演じるだろうから〉と説明する一方、〈人間、二本の足がついている以上「陸上」なら何とかなるだろう〉とのユーモアも。写真のポーズは、飛行機から飛び出すタイミングとフォームを学ぶ空挺(パラシュート)部隊の模擬扉訓練だそうだが、さすがの三島も「陸上」ではない本物の飛行機であれば尻込みしたに違いない。
〈今は歩兵のことを普通科という。上の写真はコンパス行進に出発せんとして、磁石の使い方を教わっているところだが、命令どおりの角度・距離へ、脇目もふらず、狂人の如くまっしぐらに、イバラをかきわけて進んで目標を探す爽快さは「普通科精神」というべきものがあふれている〉
〈次頁の写真の戦車は、M24というやつで、いちばん操縦がやさしいというので、やらせてもらった。なるほど、簡単で、力いっぱいやればいいので、面白い〉〈普通車の操縦では、力が入りすぎると教習所で叱られどおしだったが、戦車だと、力を入れ放題だから、愉快である。灌木の桜や花をつけた木々をメリメリ踏み倒してしまう、破壊衝動の満足はたとえようがない。こういうのを一台自家用にして、ホテル・オークラか何かへ乗りつけてみたいものだ〉
 行間から三島の興奮ぶりが生き生きと伝わってくる。戦車に乗る姿は実に堂々としているし、上半身裸でランニングしている写真をみると、鍛え抜かれた筋肉質の体は、一緒に走る教官にも引けを取らない。
 しかし、三島と自衛隊の「蜜月関係」は長くは続かなかった。3年後の1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で憲法改正に向け自衛隊員の決起を呼び掛けた三島は、賛同を得られぬ失意から割腹自殺してしまう。その行為の是非はともかく、「侍の心境」などと大見得を切りながら、保身のため老醜を晒す現代のエセ憂国者とは違い、本物の侍であったことは確かなようだ。