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1968年7月


げんなりするくらい女が強いよ  
 北海道は今年で150年の歴史を刻んだわけだが、一般的に「大らか」「東京志向」といわれる「道産子気質」は変わったのだろうか。「サンデー毎日」1968(昭和43)年7月21日号では、5人の若者がひとつのテーマについて議論する連載「ヤング・ファイブ」で、「開道百年」を迎えた「道産子」をテーマに忌憚のない意見をぶつけあっており興味深い。半世紀後に読み直しても、なるほどと思わせる部分が少なくないのだが、現在の道産子の感想はいかに――。

僕らって牧歌的なのかなあ

▲「サンデー毎日」’68年7月21日号
 参加者は、田之島正さん(22・店員)、山本久代さん(22・電話交換手)、村岡卓爾さん(21・北海道教育大4年生)、佐藤万佐江さん(22・OL)、小池忠康さん(20・北大教養学部2年生)。このうち、小池さんだけが道産子ではなく、大分県の出身だ。
 まずは大通公園に集合し、自己紹介がてら会話をスタートしたのだが、〈参院選候補者の演説にぶつかった。石原慎太郎候補が、人気俳優の弟の応援を得たせいなのか、付近はものすごい群衆〉という場面に遭遇。人気スターを一目見ようと、選挙権を持たない10代が群れを成す様子に、山本さんが〈なにせ、人気タレントには弱いのよ。道産子って〉と渋面をつくった。
 道庁前の並木道へ移動しつつ、佐藤さんが〈開道百年で騒いでいるけど、みんなどう思ってる? 私はなんか、ひどく無関心なのよ〉と話題を振ると、〈百年といったって、私らにしてみれば二十年と少ししか生きてないんだもん。うちの母なんか、五十だけど、開道いらい半分は北海道で生きてるわけね。だから、そういう人たちと私たちとでは、随分感じ方が違うんじゃないかしら(佐藤)〉〈でもまだ開拓時代と同様の苦しみを味わっている人も多いよ。札幌以外の開拓地ではね。僕らは札幌という都会に住んでいて、文化の恩恵をかなりうけて、いい時代に生まれたなんていってるけどね。だから僕たちが実際にそういう苦闘した開拓の姿を見たらどう感じるかだ(村岡)〉〈何か感じなきゃいけないかもしれないんだけど、やっぱりまあ、こんな状態もあるのかなあ、なんて思うだけで終わっちまうみたいだな(田之島)〉といった意見が。村岡さんが〈うーん。やっぱり僕らって牧歌的なのかなあ、いろいろ積極的に認識しようとか、感じようとかいう面が少ないんだなあ〉と感想を漏らす。
 続いて、九州男児の小池さんが〈でも、北海道の人、といっても札幌しか知らないけど、全体的にアカ抜けてるよ〉と率直な印象を口にすると、〈そうね、私の口からいうのも変だけど、この前、東北地方を旅行したの。そしたらあの地方の女の人って、スタイルだって、何年か前の流行よ。すごくイナカ臭いと思ったの(山本)〉〈東京都札幌区なんていういい方もあるくらい東京と直結してるんだもんね(村岡)〉などと同調する声が相次いだ。インターネットの普及で、今はトレンドに地域差はなくなったが、以前は東京の流行はダイレクトに札幌に上陸するといわれていたのを思い出す。
 東京への憧憬は歴史がない土地ゆえのコンプレックスが下地にあるともいえるのだが、そのへんの気質について山本さんが〈(郷土に対して)あまり強烈な誇りを持っていないのが特徴のような気もするわ〉と切り出すと、村岡さんが〈北海道人気質みたいなのは、確かに薄いな。僕は旅好きで随分いろんなところを歩いたけど、旅先でお国自慢する人って、北海道の人間にはあまりないんだ。北海道っていいでしょう、なんていわれると、そうですね、ぐらいでね〉と自らの体験談を披露。その言葉に、山本さんは〈そうね、北海道っていろんな地方の人が渡り住んだわけね。なんていうか植民地的な人間が多いのよ。私の祖母は秋田の人だけど、三代目の私にも秋田的なものは残ってる。けど、新しい北海道的なものは何かっていうと、よくわからないの、寄せ集めなのね〉と納得していた。
 後半は道産子のマイナス面を指摘する意見も。
〈道産子の大らかさというより、鈍さかげんを感じるんだ。のんびりしすぎてるよ。そしてまた、伝統の重みってのもないんだね(小池)〉〈伝統の美しさみたいなものを知らずに生きてるわけよ。なんだか大らかすぎるわ。ルーズなところがあるみたい(佐藤)〉〈大らかといえば聞こえはいいけど、少なくともどん欲じゃないのよ。ある状態のなかで最良最大にやるけど、それ以上に踏出すことがないのよ。まあこれでいいやと思っちゃうのね(山本)〉〈とにかく道産子に繊細な人間は少ないよ。こまごましたことはできないんだな。僕ははっきり言うけど、北海道の若者にはビジョンがないんだ。現状満足の気持ちってのは、これからの北海道を発展させるのに大きな障害になってるよ(小池)〉
 みなさん、なかなか手厳しい……。最後のテーマは北海道の女性。
〈女がいばってるって聞いたよ(笑)。開拓期には女性は少ないわけでしょ。自然に大切にされるようになって、だんだんいばってくる。とにかく九州よりは女性がいばってるよ(小池)〉〈そうだな。女性が強いのは確かだ。少しも控え目じゃないよ(田之島)〉
 こうした男性陣の見立てに、北海道嫌いを公言する佐藤さんは〈そうなのよ。女らしい、伝統に磨かれたみたいな女性美って、まるでないのよ〉と賛同する。一方、地元愛が人一倍強い山本さんは不服だったようだが。
 さまざまな話題で盛り上がった討論会は、日が暮れたのを潮にお開きに。進行役の編集者は〈九州人の小池君に「ビジョンがなさすぎる」といわれて、道産子ヤングはシュンとなってしまったようだ。道産子ヤング、もっとがんばれ!〉と結んでいるが、現代の若者は「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の精神を胸に秘めているのだろうか。70代になった彼らの目に、今の北海道はどう映っているのか、改めて話を聞いてみたい気がする。


小笠原の子の東京日記

▲「週刊新潮」’68年7月20日号
 半世紀前の6月26日、小笠原が日本へ復帰した。離島する者、帰島する者、残留する者、それぞれに万感の思いがあったようだが、「週刊新潮」20日号は、父島から東京見学に招待された21人の高校生の複雑な心境を伝えている。  21人の上京は、美濃部都知事の鶴の一声で決まったもので、〈「できれば全寮制の都立秋川高校に特別クラスを作って入れたい」〉との腹案を打ち出していた。
 1週間の滞在中は、東京タワー、羽田空港、国立劇場、オリンピック競技場、箱根などを見学。最終日の記者会見で〈「日本人になってよかったと思う人は手を挙げて」〉との質問に、〈パッと手を挙げたのが男の子四人。あとは周りを見回しながらポツポツ〉という微妙な空気に包まれた。後出しで挙手したのは“忖度”だろうが、これには美濃部知事が〈「遠慮しなくていいんだよ」〉と必死に笑顔をふりまき、気を遣う始末。また、〈「秋川高校に入りたい人」〉という呼びかけには、2人の男の子しか興味を示さず、〈アメリカの教育を受け、英語で語り、英語で考える〉彼らを受け入れる難しさを改めて浮き彫りにした。
 日本語すら満足に理解できない21人の「新日本人」は、その後、どんな人生を歩んだのだろうか。


滅びゆく蒸気機関車

▲「週刊文春」’68年7月8日号
 鉄道ファンのなかでも「撮り鉄」は一大勢力を誇っているが、半世紀前は風前の灯となった蒸気機関車を追いかけるファンが全国各地に出没し、大変なブームとなっていた。「週刊文春」8日号では、SL撮影の第一人者として知られる関沢新一氏(49)の一週間に密着し、SLに寄せる並々ならぬ情熱を伝えている。
 関沢氏の本職は、東宝専属のシナリオライター。また、美空ひばりの『柔』や都はるみの『涙の連絡船』などのヒット作を世に送り出したコロムビア専属の作詞家でもあった。が、折からのSLブームで、余技のSL写真が注目され、各方面で引っ張りだこになっていたのである。
 密着初日の6月14日は小樽にいた。
〈おメアテは急行「ていね」。旅客蒸気機関車のうちで、最大であり完成された最後の蒸気機関車といわれるC62型が、ここの小樽築港駅から重連で函館に向かう〉
 今回はコロムビアの仕事も兼ねており、余市まで機関室に同乗の許可を得て、先発隊のスタッフとともに走行音を録音することになっていた。
〈「動きはじめるとき、動輪に力を伝える主連棒がカランカランと音を出します。この音の魅力はたまらないな」〉〈「夜中の二時か三時ごろ、遠くからきこえてくる哀愁をおびた汽笛を耳にするとき、まっさきに目にうかぶのはキャブ(機関室)の赤い火ですね。ああ、ヤツは走っているな、と思うと、胸のあたりがジーンと熱くなるんです。ガンバレよと声にならない声をだしたくなってね」〉
 関沢氏は力感あふれる走行音を録音しながら、満足げにこう感想をつぶやいた。機関室の中は、絶えず粉塵が飛び込み、蒸気が渦巻くなど、過酷な状況であるのだが。
 余市を過ぎ、仁木、然別、銀山と稲穂峠の急勾配は厳しさを増していき、急行「ていね」は喘ぎながら力走する。 〈「ヤツは可愛い。無表情なクセして無表情をそのまま出す。ハラ芸などできるヤツではないから、峠にさしかかると、ギャアギャア、ヒイヒイ泣きわめきやがる。そしていったん登りつめると、シレっとした顔で、チンタラチンタラ坂を下っていくんだからな」〉
 SLを見つめる関沢氏の眼差しは常に温かい。子どものいない氏にとって、SLは我が子同然の存在だったのかもしれない。倶知安で途中下車し、国鉄職員夫妻の平凡な日常を描いたドラマ「旅路」のモデルとなった高田緑郎さんと久闊を叙した。
 6月15日も小樽に滞在。小樽機関区を見下ろす平磯岬の宿に泊まり、SLを追いかけた。翌日に帰京し、6月18日は大阪・朝日放送のクイズ番組にゲスト出演。関沢氏の役割は、蒸気機関車の撮影名所を北から12カ所挙げるというもの。北海道からは、「石北本線常紋付近」と「函館本線上目名付近」を推した。
 6月19日は再び朝日放送で番組の収録。
〈呼びものは、十六分の一の模型の蒸気機関車で出題者が登場するところ。運転手は、もちろんカレである〉〈ここでも、シナリオライター、作詞家というよりも、司会者に紹介されたように“蒸気機関車マニア”として受けいれられている〉
 本業で関沢新一の「名前」は広く知られていたが、どちらかと言えば裏方的な仕事であり、「SLおじさん」人気で「顔」も広く知られたといえよう。
 6月20日は広島県の尾道へ。目的は函館本線とともに、C62が活躍しているもう一つの急行「安芸」を、呉線でカメラに収めることである。撮影地の山間で列車を待つ間、〈「ぼくは、少年の頃、鉄道省の試験を二回うけたことがあるんだな。一回は近視でハネられ、二回目は体力検査でフルイ落とされてしまった。もし受かっていたら、いまごろどこの、どの職場にいることだろうね」〉と一言。シナリオライター、作詞家として名を成しても、やはり機関士への憧れは消えないらしい。
〈滅びゆくものへの郷愁を、カメラにおさめておこうと執念を燃やす。しかし、あと数年で、完全に蒸気機関車が姿を消したとき、カレのいままで燃やしつづけてきた火は、どうなるのか〉との質問に、関沢氏は、「本業があるから大丈夫。けっしてマニアにはならないから」と答えたものの、一方では〈「このごろは、旅の宿で汽笛を聞いても『こんにちは』というよりも『さよなら』というようになってしまった……」〉と寂しさを隠し切れない本音も。  多くの人に愛されたSLは、7年後の昭和50年12月14日、室蘭―岩見沢間の運行をもって完全引退した。沿線を埋めた人だかりの中に、関沢氏の姿もあったに違いない。